『本当の檸檬の木』グスタボ・フォンタン結城秀勇
[ cinema ]
冒頭、夫婦が何気なくかわす「おはよう」という挨拶の声の凶暴さに耳を疑う。はじめは会話の音が環境音よりかなり大きくミックスされているということなのかと思ったがどうもそうではない。続く、親戚の少年とともに主人公である夫が川を下る場面でなんとなくわかるこの凶暴さの正体は、登場人物の画面内の位置関係とはまったく無関係に、彼らの言葉と見なされる音が発せられる画面中央の空間がある、ということである。男と少年は木を分け入って画面の奥へ進み、やがて右手に折れて河岸につないだ小舟に乗り込む。そのワンショットの中で、背後を埋め尽くす風の音、木々の葉擦れ、虫の羽音、鳥の鳴き声などからまったく独立したものであるかのように、言葉少なな彼らの会話は、彼らの画面内の位置関係とは無関係に言葉が鳴るべき画面の中央から聞こえてくる。
ふたりが乗った小舟は川を進み、カメラは岸の木々を映し出す。風が次第に強く吹き出し、陽が陰り雨が降る。水面を叩く雨はやがて弱まり、再び太陽の光が照りつける。そこで小舟は目的地の岸に着くのだが、これまでの天候の変化が単に彼らの移動に伴う時間の経過を示すだけのカットの連なりであるようにはとても見えないのだ。もっと言えば、おそらくせいぜい何十分程度であるはずの彼らの移動より、はるかに長い時間が通り過ぎていったかのような錯覚に襲われる。そして彼らが上陸する岸辺の植物は雨上がりの瑞々しさで陽光を反射しているが、彼らの髪や衣類は雨が降ったのはもう何日も前のことであるとでもいうかのごとく、乾ききっている。
こうした音響面、あるいは時間的なスケールのある種の噛み合わなさは、上映後のスカイプトークで監督が語っていた人間と自然との対立のようなもの(そして勝手に補足するなら、その対立を総合するのではなく、スケールの違いそのものをそのままの尺度で混合させること)に関わっているのだろう。そこで併せて監督は、ここでいう自然とは、普通人が思うような穏やかで気持ち休まるようなものではなく、もっと気まぐれで恐ろしいものであるとも語っていた。と同時に、『本当の檸檬の木』において重要なのは、人間であることと自然であることの境界もまた曖昧なものでありうる、ということではなかろうか。『ラ・カサ/家』で描かれる、本来境界そのものであるはずの家の内側で、どこか内側にいると同時に半分外側にもいるような感覚に襲われるように。
そうした意味で、大晦日を祝う親戚同士のパーティの途中、女たちの笑い声が次第に背後に回っていき、リヴァースエコーのような奇妙極まりない音響効果が加えられるとき、どこか女たちの声が自然のように気まぐれで恐ろしいものように聞こえる。そうした意味で、少年が木をリズミカルにダッダッダッ、ダッダッダッと叩きつける音や、主人公がひとりで夜の川を帰るときに鳴るオールの軋みは、伝えるべき相手を見つけられず言葉にならなかった人間の叫びのようにも聞こえる。