『わたしたちの家』清原惟三浦 翔
[ cinema ]
ここでありながらも何処か違う世界から届くプレゼントを受け取ること。同じ場所に前後関係もない、ふたつの時間が流れている、という設定だけを聞くとSF/ファンタジー的な想像力に支えられたアナザーワールドもののように思えてくるが、清原惟監督はそうした設定をなにも物語的に回収することはしない。そこで試みられているのは、ひたすらショットの連鎖だけでふたつの世界の関係を問うことであり、その視線は徹底的に映画的なリアリズムのものである。
家に住むのは女の子のカップルであり、セリも透子もある男の侵入を拒みたいなど、確かにふたつの世界にはいくつかの類似が存在する。しかしその類似した女の子たちの物語にすら、なんら確証的な説明が与えられることはない。むしろ、なぜ追われているのか、なぜ父の不在をそれほど気にするのか、そういった彼女たちの内面や行動の動機といったものはいっさい語られないまま、「秘密」として守られている。
気になってしまうのは、映画のなかには一切映らない部屋がひとつあることだ。その部屋の存在は、ふたりの会話がその入り口で交わされることによって暗示されるのみである。しかし、そこはセリと透子にとって重要ななにかが隠された部屋でもあり、決して語ることの出来ない「秘密」の部屋でもある。ただし、その部屋はたとえ中が映されたところでなにも語らないだろう。むしろ問題なのは、部屋とその外に通じる、襖や扉、窓であり、ここにある場所と別の世界との間にある境界、つまりはフレームである。ただし、この映画の魅力はフレームの外へ向かおうとせず、反対にフレームの外から来るプレゼントを受け取り、境界から立ち上がる物語を語ろうとしているところにある。
たくさんの人に囲まれてまさに幸せ絶頂のパーティのなかで、ふと違った音が聞こえ始めてひとりになってしまう、そんな終わりの時間から映画は始まる。さっきまでいっしょにいた人たちの声が聞こえたままボーっと過ごすように、父だろうか、友達だろうか、あるいは新しくやって来る誰かか、この映画ではかつてあるいはこれから、そこにいた/来るであろう人たちを想いながら部屋の時間が流れていく。そうした他の時間との戯れのなかで、ふたつの世界が呼応しはじめる。母と娘の赤の時間と、海からやってきた謎の女と陰謀を抱えた女の青の時間、ふたつの世界が昼と夜のように反響し、互いの時間を大切な「秘密」として隠し持っているかのように。過去なのか未来なのか、あるいは一方の世界の誰かが生きるために見ている夢なのか、おそらくふたつの世界は切り離せない。そんなふたつの世界、そして「わたしたちの」複数の時間を受けとめて、ひとつに納めるフレームこそが『わたしたちの家』と呼ばれるこの映画なのである。