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March 9, 2017

『ジョイ』デヴィッド・O・ラッセル
結城秀勇

[ DVD ]

もしこの作品が2016年に公開されていたら、『ブリッジ・オブ・スパイ』『ザ・ウォーク』『白鯨との闘い』『ハドソン川の奇跡』などと並べて、「post-truth」が流行語に選ばれた年に日本で公開された「事実に基づく」アメリカ映画はこんなにも変なことになっている、とでも言いたくなっただろう作品だ。先日DVDスルーされたのは非常に残念だが、そうした判断がなされるのもそうそう理由のないことでもないのかもとさえ思えるような奇妙な作品ではある。
FOXのサーチライトのファンファーレは途中でBGMにかき消され、(後にジョイの母親が見ているのだとわかる)ソープオペラがなんの前触れもなく始まる。やがてようやく本題が始まったかと思いきや、語り手を務めるのはジョイ本人ではなくその祖母。「ミラクル・モップ」の開発者であるジョイ・マンガーノという実在の人物、それもまだ生きてる人物の伝記映画なのに、作品全体の統覚としてあるものの位置が、なんだかおかしい。もちろん、母親が見続けるソープオペラも祖母の人間性も、作品内で描かれるジョイの人格形成に大きな影響を与えた要素ではあるだろう。だがそのどちらも、ジェニファー・ローレンス演じるジョイという人物を説明するにはあまりにも偏っていて、どこかはみ出していさえする、そんな印象を受ける。
ベネズエラ人の元夫、イタリア系の父親の新しい彼女、ハイチ出身の配管工......、ジョイの家には様々な出自を持つ者たちが出入りする。だが異なるルーツを持つ者たちを受け入れる家をひとりで支えているジョイ自身のルーツはどこか曖昧だ(デ・ニーロが父親なんだから、イタリア系ではあるのだろうが)。特になんの必要もないのにデトロイト出身だと語りだすQVCのプロデューサーのようには、ジョイは自分の家の場所を明確に言葉にしない。
『ザ・ファイター』『世界にひとつのプレイブック』のようなデヴィッド・O・ラッセルの過去作品を振り返れば、苦境に立たされた主人公たちを支えるのは(同時に厄介ごとのタネでありもするのだが)、切っても切れない縁にある家族たちだった。前半はそうした作品のことも想起させる多彩なジョイの家族たちだが、後半に至ると少し様相が変わる。ジョイは単なる家族の一員というよりも、もうちょっとメタなレベルにいるような気がする。彼女の祖母はこんな予言めいた発言をしていたのだった。「あなたは家族のリーダーになるわ」。発明家としての成功でも、それによって大金を稼ぐということでもなく、「家族のリーダー」であることをジョイの本質として祖母は見抜く。メンバー各々の利己的な振る舞いによってもはや完全に崩壊している家族を、ジョイは自分自身の存在だけによって家族たらしめているのだとは言えないだろうか。彼女の家の玄関ポーチの柱、あの叩いても蹴っても直らない壊れた柱のように、かろうじて。
だから前述した過去作品よりもどこか暗い影を帯びた作品のように感じる『ジョイ』だが、しかし壊れているのはなにも悪いことばかりではない。祖母はジョイと別れた夫(エドガー・ラミレス)との関係をこう評するのだった。「彼らはアメリカで最高の別れたカップルだ」と。崩壊を先延ばしにするだけの関係よりも、壊れた先でしか築けないものもある。
だがそうしたこと以上に私がこの『ジョイ』という作品に興味を持つ理由は、この崩壊した家族というテーマのスケールが極限まで大きくなる瞬間があるからだ。すでに死んだ祖母の語りによって描写されるジョイの未来のフラッシュフォワード(自分で書いてても意味がわからないくらい奇妙なシーンだ)によって、巨大企業の経営者となったジョイの姿が映し出される。彼女は新製品のアイディアを持ち込む人間の話を直接聞く。そこで携帯用衣類のホコリ取りのアイディアを持ち込む赤子を連れた若い黒人夫婦に、ジョイはかつて自分が受けたのと同じ質問をする。
その場面で、なぜかスティーヴン・スピルバーグ『リンカーン』でダニエル・デイ=ルイスが演じたリンカーンの姿を思い出した。彼は自らが見聞きした挿話というかたちで、アメリカという国の古今東西、あらゆる老若男女の話をする。まるでリンカーンというひとりの人物の中にすべてのアメリカ国民が詰まっていて、その内部にいる国民の声をいつでも彼は聞くことができるとでもいうように。それと似たようなことを、未来のジョイにも感じた。彼女は、かつての自分に似た持たざる者たちのアイディアと生活を救い、ベネズエラやハイチやデトロイトからやって来た者たちを自らの内に住まわせる。
その彼女の内なるアメリカは、もしかすると引き出しの中の幼い夢の残骸やポーチのひび割れた柱と同じくらい、壊れているのかもしれない。だがたとえ壊れているのだとしても、これ以上の多様な移民を受け入れればいまいる人々の生活が立ち行かなくなるというほど、狭量な土地なんかではない。ときおり鮮烈に輝くジェニファー・ローレンスの緑色の瞳を見ていると、そんなことを思う。