『ラ・ラ・ランド』デイミアン・チャゼル田中竜輔
[ cinema ]
デイミアン・チャゼルはとりあえず「遅れる」ことに囚われた映画作家なのだろう。『セッション』の序盤で、鬼教官フレッチャー(J・K・シモンズ)とのプライヴェート・レッスンに、ドラマーのニーマン(マイルズ・テラー)が遅刻してしまうエピソードを見て、しかしこの遅刻がその後の展開にまったく何も作用しないことを不思議に思っていた。が、要するにあの場面は「こいつは何の理由もなく遅刻する男だ」と印象づけるだけのシーンだったわけだ。鬼教官が彼に「もっと速く!」と怒っていたのは、別にドラムの技術がどうこうということではなくて、たんに「遅刻すんなよ!」と叱っていただけなんじゃないか。もちろんニーマンは自身のキャリア形成にとって最も大事な演奏会に遅刻して大事故に見舞われるし、自分勝手に捨てた女の子とヨリを戻そうとしたら彼女にはとっくに新しい彼氏がいることに打ちのめされる。あの鬼教官からニーマンは音楽のことは何も学べていなかったとしても、遅刻というものの効用については身を以てじゅうぶんに学べたのではないか。
『ラ・ラ・ランド』でも、やっぱりエマ・ストーンやライアン・ゴズリングは決定的な場面でそれぞれ遅刻する。その遅刻によって彼らは恋人になり、そして別れることにもなるわけで、やはり『セッション』に引き続き、チャゼルはこのフィルムでも「遅れる」ことに作劇の重点を置いているのだと思う。そしてそのことは、もちろんこのフィルムにおけるかつてのミュージカル映画からの膨大な引用の数々にも関わっているはずだ。チャゼルはミュージカルというジャンルに対し明白に遅刻してきた世代のひとりとして、先人たちから得られるものを享受するだけ享受している。そのこと自体には何の問題もない。先達の豊潤な遺産を受け継ぐことは、あとから来た世代の特権なのだから、遠慮する必要などどこにもない。
しかしチャゼル自身はと言えば、どうにも彼は自らの遅れを真正面から認めていない気がする。自らの遅刻に対し、つねに「照れ」を挟み込むようなかたちでしか始末をつけようとしていないのだ。たとえば『バンド・ワゴン』を意識しなかったはずのない駐車場脇の公園での流麗なダンスシーンで、その頂点の瞬間をiPhoneの着信音を鳴らせて中断させてしまう。あるいは(『ウェストサイド物語』ではなく)『理由なき反抗』が上映される名画座でのファースト・キスは、フィルムの延焼で中断させられてしまう。そんな「照れ」をバッチリのタイミングで見せつけることさえできれば、自分の遅刻なんか誤摩化すことができるんだ、とでも言いたいのだろうか。
しかし遅刻において問題になるのは、遅刻それ自体の良し悪しではない。自らの「遅れ」に対しいかなる態度をもって向き合うか、いかにして「遅れ」を自らのものとして受け止めるのか。重要なことはそこにあるのではないか。たとえば映画史上最大の遅刻魔とは、もちろんジャン=リュック・ゴダールであるだろうし、そしてミュージカルというジャンルであればそれはジャック・ドゥミだろう。映画の黄金時代にギリギリ間に合わなかった彼らは、しかし「照れ」をもってそれを誤摩化すことなど選ばなかった。自らの遅れを確かに自覚しつつ、しかしそんなものなどあたかも存在しなかったかのように、光のような速度を込めて自らの映画を撮り続けた。遅刻を誤摩化すという自意識になど関心を持たず、どうやって「遅れなかった人たち」を追い越すことができるかに、彼らは自らの仕事を賭けたのだ。
ゴダールやドゥミに「照れ」などない。その代わりに彼らが持つのは「慎み」と呼ぶべきものだ。その「慎み」ゆえに、彼らは自らの「遅れ」を弁解することを選ばず、それを無限の速度の燃料にすることを選んだ。もちろんチャゼルだって、50年前に生まれていたら「照れ」を装って自分の「遅刻」をごまかすことなどしなかっただろう。だが、ミュージカルの黄金時代を半世紀以上過ぎてつくられた『ラ・ラ・ランド』は、最後まで「照れ」を捨てようとしない。ライアン・ゴズリングとエマ・ストーンに「こうであれば遅れなかったはずだ」という、もうひとつの現実を過去の舞台を用いて再現させ、あまつさえ(スマホ全盛の現代が舞台であるにもかかわらず)フィルム撮影のような画質のホームムーヴィーで未来を仮構させてまで、チャゼルは延々と自身の遅刻を誤摩化し続ける。ふたりの決定的な別れの瞬間として構想されたに違いないラストの切り返しショットは、視線の交わりさえ定かでないほどに弱々しい。そこには、あたかも言い訳の途中で説教が終わったかのような空しさだけが広がっていた気がする。