『未来よ こんにちは』ミア・ハンセン=ラブ中村修七
[ cinema ]
『未来よ こんにちは』におけるイザベル・ユペールは、せかせかと歩き、パタパタと走る。小柄で華奢な体つきのユペールが細い腕と脚を動かして忙しなく動き回る姿が素晴らしい。彼女は、動き続けることで時間の流れに対処しているかのようだ。
ユペールは、思いがけない出来事に何度も不意撃ちされる。早朝に老いた母親からの電話で起こされ、勤め先の高校で生徒たちによるストライキに遭遇し、疲れて帰宅した後にソファで休んでいると暗い顔をした夫から別れを告げられ、公園で寝そべっているとつむじ風によって書類が吹き飛ばされ、映画館で映画(アッバス・キアロスタミ『トスカーナの贋作』)を見ていると隣席の男からしつこく迫られ、ネズミを捕まえてきた猫によって明け方に目覚めさせられ、暗い部屋に座る元夫に驚かされ、クリスマスの晩に子供たちとの食事を始めようとしたところで隣室の赤ん坊が泣き始める。
『未来よ こんにちは』を見ると、いくつもの映画の記憶が呼び覚まされる。登場人物たちがヴァカンスに出かけるという点では、ハンセン=ラブのフィルモグラフィーにおいて、『すべてが許される』や『あの夏の子供たち』や『グッバイ・ファーストラブ』と共通する。別れという主題はこれまでの作品すべてと共通するものだが、この映画には子供の誕生という新たな要素が導入されている。
浜辺を歩くイザベル・ユペールの姿からは、ホン・サンス『3人のアンヌ』でのイザベル・ユペールが想起させられる。高校生たちがおこなうストライキや元教え子たちによる山での共同生活からはオリヴィエ・アサイヤスの『5月の後』を想起させられる。
バスの車窓から元夫の恋人をたまたま見かけて笑いだすユペールの姿を見ると、どうしても、オリヴィエ・アサイヤスの『8月の終わり、9月の初め』(1998)で、亡くなった友人の恋人だった少女(ハンセン=ラブが演じていた)を街中で見て笑いだすマチュー・アマルリックの姿を想起させられてしまう。『8月の終わり、9月の初め』でキャメラの被写体だったハンセン=ラブは、『未来よ こんにちは』では、キャメラの後ろ側にいる。ハンセン=ラブは、約20年の時を隔てて、まるで切り返しショットのように、写される側から撮影する側へと移行している。被写体から映画監督へのこのような移行ほど、ハンセン=ラブの成熟を示すものはないだろう。
ユペールの演じる女性とその夫が共に高校の哲学教師であることから、パスカル、ルソー、フーコー、ジャンケレヴィッチ、レヴィナスといったフランスの哲学者や、カント、ニーチェ、ショーペンハウエル、アドルノ、ホルクハイマー、エンツェンスベルガー、ギュンター・アンダースといったドイツの哲学者や、現代の哲学者スラヴォイ・ジジェクの名前さえ現れる。しかし、その名前が登場人物たちによって言及されることも著書が映しだされることもないけれども、この映画に最も相応しいのはイタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンではないかと思う。なぜなら、アガンベンが論じる「潜勢力」という主題が、この映画でのユペールには近しいと思われるからだ。
「思考の潜勢力」と題された論考においてアガンベンは、「人間とはすぐれて潜勢力の次元、なすこともなさないこともできるという次元に存在している生きものである」と述べる(『思考の潜勢力』高桑和巳訳)。とはいえ、潜勢力の本質をなすのは何かをしないことができる「非の潜勢力」だと彼は考える。だから、彼は次のように述べる。「人間は、自体的な非の潜勢力が可能な動物である。人間の潜勢力の偉大さは、その非の潜勢力の深淵によって計り知られる」。
「非の潜勢力」に触れたうえで指摘しておきたいのは、『未来よ こんにちは』において、「歩く」、「走る」、「話す」、「読む」、「食べる」といったユペールの行為は捉えられているが、「書く」という行為がほとんど欠如していることだ。彼女が演じる女性教師は、黒板のある教室で生徒たちに授業をし、長年に渡って刊行されている教科書に携わり、生徒たちが開設するインターネットサイトへの執筆を依頼される。しかし、黒板にチョークを擦り付けるのであれ、ペンを握ってインクで紙に文字を記すのであれ、パソコンのキーボードを叩くのであれ、彼女が「書く」姿を見せるのは、冒頭におかれた、フェリー内の座席に座ってペンで紙に文字を記すシーンのみだ。僅か数分の冒頭のシーンは彼女たち夫婦の子供がまだ幼かった頃のヴァカンスとして設定されているのだが、作品の残り大半の部分を占めるのは、それから数年後の、子供たちが既に成長して独立した時以降として設定されている。作品の導入部となる冒頭のシーン以外で、彼女が「書く」行為を見せることはない。教室での授業において、彼女はテクストを手にもって生徒たちの間を歩き回り、黒板に文字を記すことはない。彼女の夫と教え子がパソコンのキーボードを叩く姿を見せてはいても、彼女がパソコンの画面を見つめることはない。
もちろん、冒頭のシーン以降でユペールが「書く」行為を失うからといって、アガンベンが著作において幾度も言及するハーマン・メルヴィルの短篇小説に登場する書写人バートルビーが「そうしない方が好ましい」と述べて書くことを拒んだ果てに無為によって命を落とすこととなったように、この映画でのユペールが哀れな人生をたどることになるなどと述べたいわけではない。「書く」行為が冒頭以降で欠如していると指摘したうえで述べておきたいのは、とうぜん行使できるはずの能力を行使することのない、「非の潜勢力」を保持する人物としてユペールがスクリーンに姿を現していることだ。
この映画におけるユペールは、冒頭のシーンを除いて「書く」行為を失うだけではない。彼女は、書いたものすら奪い去られてしまう。出版社は、交渉の末、彼女が監修を務めていた教科書の刊行打ち切りを申し出る。また、離婚して部屋を出て行った元夫は、書棚から約半分の本を自分のものとして持ち去るばかりでなく、彼女のノートすら持ち去る。『未来よ こんにちは』では、「書く」行為の喪失と書かれたものの剥奪が、相即的に現れている。
『未来よ こんにちは』のユペールは、自分の行為を何らかの明確な目的と合致させることには頓着していない。何度も不意撃ちに遭遇する彼女は、幸運が待ち受けているのか災難が待ち受けているのかに頓着しても仕方がないとでも考えているのかもしれない。行為を目的に合致させることに無頓着な彼女は、思想と行為の一致をめぐり、教え子と対立することになる。社会変革を意識して仲間たちと共同生活を送る教え子は、私的な領域でしか思想と行為を一致させていないとしてユペールを批判する。これに対し、ユペールは、教え子の意見を図式的だとしたうえで、教師として自分の頭で考える若者を育てたいと控えめに述べるだけだ。
彼女は、何度か涙を流すことがあるとはいえ、気分の消沈を長引かせることがない。いくつもの別れを経験したのちも、彼女の姿は不幸を少しも感じさせない。彼女は、別れた夫との復縁などまったく望んでおらず、独り身での生活に不満を抱いておらず、新しいパートナーを見つけることにも興味を示していない。彼女が愛情に満ちた人物であることは、彼女の愛情が母や夫や子や教え子や亡くなった母から譲り受けた猫に向けられていたことが十分に示している。新しいパートナーとの関係を彼女が築くことはないからといって彼女が誰かと親密で深い関係を築くことができないことを意味するわけではない。彼女は、そうしないことができる能力を行使しているだけだ。彼女が冬に山荘を訪れるシーンでは、夜中に2人きりになった教え子との間に何らかの出来事が起こっていたかもしれない。
子供たちとともに食卓を囲むクリスマスの夜、ユペールの周囲には、来たるべきものの予兆を感じさせる明るく暖かい光が溢れている。そのような光のもとでの彼女は、幸福そうに見える。良い結果を招くことにも悪い結果を招くことにも頓着せずに動き回るユペールには、来たるべきものに対して肯定的で開かれた態度がある。そのような態度が、彼女に明るく振る舞うことを可能にしている。