『パーソナル・ショッパー』オリヴィエ・アサイヤス田中竜輔
[ cinema ]
このフィルムのクリステン・ステュワートはとにかく片付けをしない。というよりも、自分のために用意したものを使う素振りさえない。コーヒーを入れてもビールを開けてもほとんど口をつけぬまま、片付けもせずテーブルに放置していってしまう。彼女は何かしらを自らのものにするという様子は微塵も見せない。すでにこの世を去った兄について聞かれ「私たちは霊媒(メディウム)なの」と語る彼女は、自らの実体をもって何かを成し遂げることがない。自らの体を何かを運搬することだけに費やし、何かしらを実現したり獲得することはない。そうしたすべてが彼女のパーソナル・ショッパー=買い物代行者という職業のみならず、存在規範に関わっていることは言うまでもない。
オリヴィエ・アサイヤスの映画に現れる女性たちは、往々にして何かの代替として、あるいは何かの媒介としての役割をいつも担うことになる(かつてアサイヤスはそうした女性たちのことを「フィクションである」と表現していた)。おそらく『デーモンラヴァー』のコニー・ニールセンがこのフィルムのステュワートに最も近接した人物なのだろう。ステュワートやニールセンは自らの身体を通過していくさまざまな事物や事柄によってこそ、己の実在をかろうじて確かめることを許される。不可視の資本を循環させ、自分に関わりのない無数の商品や出来事を通過させることで、彼女たちはこの世界を生きる。彼女たちはそうした物事を自らの所有物にしようとはしない。つまり、他者に成り替わろうとするわけではない。雇い主の目を盗みこっそりと身につけたドレスが誰の目も見せられはしなかったように、謎の人物からのメッセージが語るような変身願望など、彼女たちにはない。
重要なことは、そのようにステュワートが残す痕跡が、彼女以外の誰にも気づかれていないということだ。ステュワートがかつての兄の友人(兄と死別した妻との再婚相手)と対話する場面。その男が実のところ目の前のステュワートと対話したいわけではなく、彼女を通してその兄と対話することを求めていることは明白だ。このときのステュワートは彼女が日常的に用いているスカイプやSMSのインターフェイスとまったく同じ存在となる。通話やメッセージの履歴が残れども、その蓄積は蓄積に過ぎず、彼女を変容させるものではありえない。だからこのきわめて親密に見える会話もまた、彼女に何かをもたらすことはない。
しかし、このあまりにも残酷な場面が、同時にひどく感動的なものであるのはなぜなのか。それはこの場面が、自らの唯一の存在理由としていたはずの兄の存在を、ステュワート自身が目にすることのないままに、私たち観客だけが目撃することが許されたシーンとしてあるからだ。この場面に至るまで、このフィルムの彼女が残す痕跡に気づくのが私たち観客のみであるということは、行為者である彼女を除いてのことだった。だがこの場面において私たちが目撃するのは、そもそもが彼女の知覚や行為の外にある出来事なのだ。この気高き女性に備わる徹底的な孤独とは、彼女が自身としては知覚することのない、その外側の世界との接続のために必要とされたものであることが、この場面で明らかになる。彼女の霊媒としての能力とは、彼女自身のためのものではないばかりか、彼女自身さえ知覚できないものであることが、ここにはっきりと示されている。「くだらないことばかりで自分のやりたいことができない」と自分の人生を呪う彼女は正しい。しかし彼女にとっての「くだらないこと」は、彼女自身ではないものに確実に関わっている。だからクリステン・ステュワートはこのフィルムの主役であるようで、実はそうではない。クリステン・ステュワートはむしろひとつの「映画」そのものであると見做すべき、文字通りのメディウムなのだ。
映像としての亡霊にステュワートが怯えることに始まるこの映画は、亡霊を音として聴き取ろうとする彼女の姿に終わる。このラストシーンにおけるステュワートの姿と身振りは、『ヨーロッパ1951年』において自分の与り知らぬ世界を初めてその目と耳で知覚したイングリッド・バーグマンの当惑の身振りに重なりあう。ステュワートの涙とその体と声の震えは、彼女による彼女のためのものではいささかもない。映画のカメラがそれ自身の姿だけは決して収めることができない代わりに、その目の前のあらゆるものを映し出すことができるように、クリステン・ステュワートは己のそれ自身としての姿をもって、彼女以外のすべてを引き受けることで、他のあらゆるもののために闘う。彼女の涙と震えはそこに理由がある。ここに映し出されているのは、現代世界への抵抗を体現するひとりの聖女の受肉だ。このフィルムにおけるクリステン・ステュワートとは、すなわちひとりのジャンヌ・ダルクにほかならない。