『牯嶺街少年殺人事件』エドワード・ヤン中村修七
[ cinema ]
『牯嶺街少年殺人事件』は、ひとつの時代状況を丸ごと掴もうとするスケールとともに、緻密な構図のショットと的確な演出によって作られた傑作だ。そして、言うまでもなく、我々の時代が共有しうる最も偉大な映画のひとつだ。この映画には、世界がある。ひとつの時代があり、多くの人々が暮らす都市があり、異なる集団の間における争いがあり、ある家族の生活があり、友人たちの交わりがあり、恋人同士の関係がある。約4時間にわたる映画を見終わった人は、興奮と歓びの混じった溜息を吐くことになるだろう。
映画に登場する数多くの人物の中で、リサ・ヤンが演じる小明は、きわめて特異な存在だ。それは、彼女が多くの男たちから好意を寄せられるという理由だけによるものではない。むしろそれは、男性性を象徴する装身具や道具を彼女が手にするという理由にある。
戦車が轟音を響かせながら走行するなか、道路の脇に立った制服姿の小明は、点灯した懐中電灯を振り回しながら、同じく制服姿の小四(チャン・チェン)と喋る。この懐中電灯は、中学校に隣接する映画スタジオから盗み出して以来、小四が唯一の私的空間である押入れの中で本を読んだり日記を付けたりすることを可能にし、彼がいつも腰に差して持ち歩いていたものだ。若い医師と話すシーンで、小明は、若い医師を相手に挑発的に振る舞い続け、脇にある医師のソフト帽をヒョイとかぶってみせる。このソフト帽は、小四が西部劇の主人公を真似るシーンにおいて、彼がかぶっていたものだ。また、そこで彼が小明の頭の上にソフト帽をかぶせていたことも見逃せない。小四が医師に黙ってこっそりとかぶっていたのに対し、小明は持ち主を前にして堂々とソフト帽をかぶってみせる。さらに小明は、裕福な小馬(タン・チーガン)が暮らす日本家屋へ遊びに行くシーンにおいて、両手に構えた拳銃を小四に向けて撃ち放つ。小津安二郎の『その夜の妻』に登場する八雲恵美子が刑事からソフト帽をかぶせられたり拳銃を握ったりしていたのと同じように、小明もソフト帽をかぶったり拳銃を握ったりする。
奇妙なことに、『牯嶺街少年殺人事件』では、懐中電灯にしても、ソフト帽にしても、拳銃にしても、男性性の象徴となる装身具と道具が、それらとは不似合いなはずである制服姿の女子中学生の手に収まってしまう。こうして、喘息持ちで身体の弱い母親に育てられている最も貧しく恵まれない少女は誰よりも大胆に振る舞うこととなる。
一方で、男性の存在感は脆弱なものだ。そもそも、この映画には父親の存在感が希薄だ。小明の家庭は父親のいない母子家庭だし、小四の友人たちの父親は姿を現すことがない。例外的に登場する小四の父親は、いかにも小役人風であり、上海時代から付き合いのある友人から便宜を図ってもらうために汲々としている。声変わりを迎えていない小柄な王茂(ワン・チーザン)は、バンドのシンガーとして別の男とともにデュエットを組んでおり、女声パートを担当している。エルヴィス・プレスリーに憧れているものの、彼には低く太い声で歌うことなどできず、高音の女性的な声でプレスリーの歌をカバーする。さらに、小四が起こす殺人事件では、いかにも男性的な長刀でも拳銃でもなく、日本女性の護身用の短刀が凶器となる。したがって、小明が男性性の象徴となる装身具や道具を手にするのと対照をなすように、小四は女性的な道具を手にするのだ。
少年たちは男性性を表象することに失敗し、か弱げな少女こそが男性性を象徴する装身具と道具を手にする。大人たちが抱える不安や憔悴は、政治や何らかのかたちで解消されることなく、子供たちへと伝播する。映画スタジオでの製作作業は停滞している。小四の姉と兄は、「Are You Lonesome Tonight」のレコードを聴きながら歌詞の一部を「A Brighter Summer Day」と誤って書き取る。映画には、象徴的な事物にしても映画スタジオにしてもレコードにしても、表象に関わる行為や装置が機能していなかったり齟齬を生み出したりする様態が幾つもちりばめられている。このように、表象の機能不全を描いた点に『牯嶺街少年殺人事件』の現在性がある。
『牯嶺街少年殺人事件』を見る者ならば誰でも、そこに危うい空気が流れていることを感じ取るだろう。そして、少しでも注意深い者であるならば、現在にも危うい空気が流れていることに気付くはずだ。牯嶺街が象徴するのは、1960年代初頭の台北であり、表象が機能不全に陥った都市空間だ。実際に起きた殺人事件から50年以上が過ぎてもなお、また公開されてから約30年が経とうとしてもなお、世界は牯嶺街を彷徨い続けている。
・nobody issue26
・nobody issue39