『20センチュリー・ウーマン』マイク・ミルズ結城秀勇
[ cinema ]
ようやくこの映画を見て、ようやくタイトルの示す「20世紀の女性」が複数形であったことを知る。
スーパーマーケットの駐車場で派手に炎上するフォード・ギャラクシーに被さるようにしてはじまるドロシア(アネット・ベニング)のモノローグが、1924年に生まれた彼女は40歳で息子を出産したことを告げる。世紀の3/4を生きたこの女性(後に彼女は1999年に亡くなるということがわかる)が、ああ日本語タイトルでいうところの「20世紀の女性」なのだなと思って見ていると、まるでひとつのパラグラフの途中で語り手が変わってしまうような唐突さと違和感を伴って、モノローグの主体が急に彼女の息子ジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)に切り替わる。この時点ですでに、これはある「20世紀の女性」の話でもなければ、「20世紀の女性」が語る「20世紀の女性たち」の話でもないのだなと気づく。
こうしたモノローグの多声性や、突然登場人物の過去や未来が表出する時系列のありようなども指してのことだと思うのだが、マイク・ミルズ監督はあるインタビューで「宇宙人が地球を俯瞰して観ている」ようなこの視点を「デヴィッド・バーン手法」と呼んでいる。そんなやり方で映し出されるこの作品の1979年のサンタバーバラは、たとえばリンクレイターの 『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』における80年代初頭のオースティンのような「もしかして自分もそこにいたかもしれない場所」とは違う(年齢詐称であの場所を去ったはずのウィロビーがしれっとエンディングに登場する、という意味での「いたかもしれない場所」)。そうではなく、たしかにドロシアやジェイミー、ジュリー(エル・ファニング)やアビー(グレタ・ガーウィグ)のような人たちがいたであろう固有の時間・固有の場所は、まるで宇宙からのような遠い距離と時間を隔てて眺めることで、いまだ特定の結果に収束していない多種多様な可能性の重なり合わせのように見えるのだ。もちろんドロシア自身が語るように、やがてパンクの終焉が訪れ、やがてエイズの蔓延が訪れ、やがて1999年にドロシアがガンで死ぬという事態は避けがたくやってくるのだろう。だが、そうした視点が導入されるからこそ、あたかもまるでふたを開けて見るまでなにが起こるかわからないとでもいうふうに、もしかして彼女たちはそうではない結果をまだ選び得る状態にあるのじゃないかと考えてしまう。あの家に住む者たちは、まるで箱を開けるまでは半分死んでいて半分生きている状態に留まるシュレーディンガーの猫のようなんじゃないかと。
そんなことを考えてしまうのも、監督がさまざまなインタビューで繰り返し繰り返し語る、ドロシアの造型(とモデルになった母親のキャラクター)とハンフリー・ボガートの関係性の話を読んだからなのかもしれない。「ママはボガートに愛されたかったんじゃない。ボガートになりたかったんだ」(前掲インタビュー)。そして同様の事柄は、息子ジェイミーの中にも折り畳まれている。彼は「昨日女を三回イカせたぜ」と息巻くボーダー仲間に「クリトリスの刺激でだろ」と返し、ボコボコにされる。「どうしてこんなことになったのよ」と呆れる母親に対して、ジェイミーはまっすぐな眼でこう答える。「いい男になりたいんだ」。彼にとっての「いい男」とは、女たちの中にある男、女たちを通じてしかたどり着くことのできないものだ。彼にとって「いい男」になるとは、「20世紀の女性たち」になるのと同義だ。
だから「20世紀の女性たち」とは、ドロシアひとりのことではないし、彼女の世代の女たちだけではないし、ジュリーやアビーのようにジェイミーの周りにいた女たちだけでもない。ボガートに愛される代わりにボガートになろうとする女や、女たちの中にしかない「いい男」になろうとする少年をも含んでいる。この映画の中でのジミー・カーターのテレビ会見の扱い方に触れるまでもなく、現代において「20世紀の女性たち」になろうとすることは、非常に重要な価値を持つことであると同時に、非常な困難を伴うことでもあるだろう。それでも私はやはり「20世紀の女性たち」になりたいと思う。ジュリーの語るセックス論のように、「二回に一回はしなければよかったと後悔する」失敗が待っているのだとしても。「残りの半分はそうじゃないからよ」と思えるかぎり。