『夏の娘たち〜ひめごと〜』堀禎一結城秀勇
[ cinema ]
二度見たら、一度目よりも(あくまで量的な)理解が増えるだろうかと思ったが、いやあ、清々しいまでに一切そんなことがなかった。冒頭の病室からすでに無際限に増殖していく血縁地縁のネットワークについては、一度目に見た時点で理解し得ることはほぼ理解していたことがわかっただけだったし、初見で心をつかまれたあのカットとカットのつなぎやアクションとアクションの間あるいはアクションそれ自体に存在する「速さ」についてもう少しよりよく書けるようになるかと思ったが、むしろ一度目にそれを発見してしまった身体がただ嬉々としてそのテンポを享受しただけだった。
たとえば、直美(西山真来)が義雄(松浦祐也)と出会う(後にそれが再会だったとわかる)旅館の一部屋。お茶を入れる直美に対して義雄はしきりに右後方を気にするのだが、画面に映し出されないその空間にいったいなにがあるのかがわからない。ついに「それいじってもいいですか」と切り出す義雄によって、三味線は画面内に召喚されるわけだが、その唐突さは続く端唄「春雨」を弾き踊る流れを至極当然のように用意して、さらには歌と踊りというひとときの高揚のあとでその余韻をさらに引き立てるがごとき切れ味で言い放たれる直美の「変な人」という一言。ここで演奏される「春雨」の歌詞の、自分を鶯に愛する男を梅にたとえる遊女が、自由になれればあなたを一生の宿とすることができるのかしら、と自らの切ない恋心を歌ったその最後に待ち受ける、「サァーサなんでもよいわいな」というなんとも暴力的な切断に似たものを、このシークエンス全体に感じる。だが、それは自暴自棄や捨て鉢というのとも違った、なんとも爽やかな切断なのであって、こうした瞬間ひとつひとつによってこの映画は絶えず新鮮な領域を切り拓いていく。
......ということが次から次へと続く映画なのだと、思いつく限りに部分部分についての言葉を連ねていくことはそれこそ際限なくできそうなのだが、もうひとつだけにしておく。この映画のラスト、直美の結婚式のまさに当日、首を吊って死んだ裕之(鎌田英幸)を巡って、川瀬陽太、外波山文明演じる親戚連と裕之の妹・亜季(ビノシュ)の間で交わされる会話。
「裕之はなんで首を吊ったのかねえ」
「ロープで、じゃないですか」
「お兄ちゃんに聞いてよ」
whyの「なんで」がhowに変換される脱臼からの、whyにしろhowにしろそれは死んだ当人に聞けというナンセンスの爆発。ここにもほとんど暴力的な切断というか跳躍がある。直美の本当の父親にしろ、直美の裕之や義雄に対する気持ちにしろ、麗奈(和田みさ)の妊娠を巡る嘘にしろ、そしてここで語られている裕之の死にしろ、数え上げきれないほどの謎や秘密が『夏の娘たち』にはある。だがそれら「ひめごと」たちは、解明されることによってその価値を発揮しようなどとは一切しておらず、いたって健やかに慎ましく、ほとんど「なんでもよいわいな」と言わんばかりに「ひめごと」のままで存在している。そのことが、とにかく快楽としてある。
言い間違えられた麗奈の「あったことはなかったことにできない」、この映画の本当に最後で道祖神の画に重ねられる「100万円のネコ」という子供の声、あのカクカクズーム......。それこそ「堀さんに聞いて」みたかったことを、いまさらのように幾つか思いついてみるものの、そうしたことは当サイトのインタビューでの言葉を借りるなら、「言いたくない時だってあるじゃないですか」という「ひめごと」を「ひめごと」としてなんらの搾取もなく映し出すことを「普通」に行う姿勢の前に、浮かんでは消えていく。この映画を見ることができてよかった。