『パターソン』ジム・ジャームッシュ隈元博樹
[ cinema ]
冒頭から真っ先に思ったのは、STANLEYのランチボックスになりたいということだった。それは工具箱にも似た重厚なフォルムに魅力を感じたわけでなく、たんなる変身願望の欲に駆られたわけでもない。この映画に登場する薄緑色のランチボックスになりさえすれば、この映画の主人公に訪れる些細な時間やできごとに、他のどの人物よりも身近な存在として立ち会えるのではないかと思ったからだった。
朝は決まった時間に目を覚まし、自宅から徒歩圏内の職場へと出勤するパターソン(アダム・ドライバー)。バスの運転手である彼は、相棒のランチボックスを片手に提げ、絶えずふたつの地点を往来する。「No.23 Paterson」のバスによって市内を巡回しているときでさえ、ボックスはつねに彼の足元に置かれており、その中身はグレートフォールズを前にしたベンチの上で明らかにされる。ランチボックスの裏には妻のローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)の写真が顔を覗かせ、彼女が入れたポストカードを手に取って微笑めば、手作りのサンドイッチやカップケーキをゆっくりと頬張る。そして目覚めた朝から今までに起こったことを反芻し、パターソンは黙々と懐のノートに自作の詩を書き連ねていく。
『パターソン』のパターソンが過ごす1週間+αとは、おもにこうした日々の繰り返しにすぎない。平日は普段通りに仕事へ出かけ、担当車「No.23 Paterson」のバスを冷静に走らせるパターソンの姿が目に焼き付く。自宅に戻ればローラと夕食を摂り、夜の散歩がてらにバーで1杯のビールを引っかける。休日は自宅にこもって詩作に没頭し、外出先は近くのグレートフォールズかいつものバー。それ以外の外出と言えば、ローラのカップケーキが売れたお祝いに出かけるレストランと映画館くらいだろうか。1日のはじまりはベッドに眠るパターソンとローラを真俯瞰に捉え、1日の終わりのほとんどは、行きつけのバーからのフェードアウトによって告げられる。極端なことを言えば、描かれない彼の他の1週間も同じような日々の連続なのかとも思ってしまう。
何も特別なことが起こるわけではない。しかしそれでも、たった数日のミニマルなひとときに魅了されてしまうのは、単調な生活をある種のリズムとして受け入れながらも、そこから別の次元を生み出すための術をパターソン自身が知り得ているからだ。そのひとつが、彼によって紡がれる詩の連続性にある。タイトルが示すとおり、『パターソン』はウィリアム・カーロス・ウィリアムズによる同名の詩集をもとに、ジャームッシュ自らが着想を得た物語だ。ただし劇中で引用される詩のほとんどはロン・パジェットによって書かれた詩編であり、彼の詩は主人公のパターソンによって少しずつ書き加えられていく。朝食時にパターソンが見つけた「オハイオ印ブルーチップ」のマッチ箱を形容することにはじまり、バスの運転中に飛び込む市内の光景、日替わりで異なる乗客たちの身も蓋もない会話、ローラの夢に登場する双子たちの存在を通して、パターソンの詩は少しずつ、そして確実に更新されていく。詩は実際に画面上の状況とシンクロした文字によって立ち現れるが、時間の経過にともない、やがてそれらは画面上の状況とかけ離れることで横溢しはじめる。それは過ぎ去っていく日々の対価として産み落とされたディテールの集積であると同時に、映像として流れていたはずの状況や時間から、言葉と身体とを限りなく逸脱させるための行為であるとも言えるだろう。
たとえ同じような状況や時間の中を生きていたとしても、パターソンの言葉に耳を傾け、そこに流れる時間に寄り添うための一部になろうとすること。そうすることでパターソンが過ごす数日の小さな物語は、きっと私たちにとっての大きな物語となるにちがいない。だからこそ『パターソン』を見れば、その境地へと誘われるための身近な存在になりたくなってしまう。ただしそれはスクリーンを前にした私という存在では事足らず、またパターソンを取り巻く登場人物たちになりたいと思うことでもない。それは彼に持ち運ばれ、そして運転席の足元に置かれることを許された、STANLEYのランチボックスへの並々ならぬ想いでもあるのだった。
8月26日(土)よりヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿武蔵野館ほか全国順次公開