『甘き人生』マルコ・ベロッキオ中村修七
[ cinema ]
ベッドに眠る少年の耳元で「たのしい夢を」と囁いた母親は、羽織っていたローブを脱いで部屋を後にする。未明になって、眠りについていた少年は、父親の叫び声と大きな炸裂音によって目を覚ます。家に入り込んできた親戚たちによって少年は囲まれるが、大人たちは適当な嘘をついて母親が彼の前から姿を消したことを誤魔化す。
この間に、母親の死という出来事が発生している。のちに母親の死が落下と関係するものであると明らかになるのだが、キャメラが彼女の死んでいく姿を捉えることはない。葬儀の際にも、棺の中に横たわる遺体がキャメラによって捉えられることはない。『甘き人生』は、母の不在という主題をめぐって、母が死に至る姿や死んだ後の姿を捉えた映像が欠如したまま展開するフィルムだ。
突然に母を失って強い衝撃を受けた少年は、母の不在を受け入れられないまま人生を送る。彼は、母と過ごした甘美な記憶に固執し、母の不在を補うためにテレビの恐怖ドラマに登場するベルファゴールを守護神とするようになる。しかし、ベルファゴールは、彼の守護神であるだけではなく、母の代理として彼に取りついた亡霊でもある。したがって、彼は、母の死の真相を知ることによって、現実を覆い隠す夢から目覚め、亡霊から解放されることになるだろう。
ベロッキオのフィルモグラフィーにおいて、落下と母の死は特徴的な主題となってきた。例えば、1965年のデビュー作『ポケットの中の握り拳』や、21世紀に入ってから撮られた『母の微笑』や『私の血に流れる血』にそれらの主題を見て取ることができる。
ところで、母親の「落ちること」も「横たわること」も収めていない『甘き人生』には、その欠如をかえって際立たせるかのように、多くの落下運動と横臥の姿勢が収められている。
母の死後、主人公は、父が収集するナポレオンの置物の一つを窓から落とす。10代半ばに成長した主人公は、リフティングをしていたところ、玄関の上に架かるレリーフを落として割ってしまう。橋の上に立つ母は、川面に向けて手にしていた花束を投げ落とす。恋人の女性医師は、主人公が見ている前で飛び込み台からプールに飛び込んでみせる。壁面に揺れ動く水面の影がジャック・ターナーの『キャット・ピープル』を想起させる、終盤に置かれたこのプールのシーンでの恋人による飛び込みは、落下が強迫観念となった主人公に対しておこなわれる精神分析治療の中の「徹底操作」の一種だろう。
また、横臥に関しては、以下のようなシーンがある。母の葬儀の際や置物を窓から落としたことで父から叱責を受けていた際、少年は、隙を見て逃げ出して部屋のベッドに横たわる。居間のテレビに映る水泳選手の飛び込みを見た彼は、ソファの腕置きから倒れこむ動作を繰り返す。住み込みの家政婦に甘えてみたものの冷たく拒まれたのち、彼は、ソファの上でクッションの下に体を埋めて横になる。10代半ばになっても母の不在を受け入れられない少年は、学校から帰って来るなり部屋のベッドに横たわる。成人して新聞記者となったのちも、主人公は、記事を書いていた手を休める際や少年代に暮らした家を久しぶりに訪ねた際、ベッドで横になる。サラエボの取材から帰ってきたのちパニックを起こした主人公は、病院を訪ねて診察台に横たわる。恋人からパーティーに招かれた際にも、彼は途中で迷子になり害獣除けの鉄戦に足を引っ掛けて地面に倒れる。
ここで、「落ちること」と関係のある別の事件に言及しておきたい。『甘き人生』の主人公の母親が亡くなるのは1969年12月のトリノでの出来事だとされているのだが、同じ月にミラノではフォンターナ広場爆破事件が発生し、事件への関与を警察から疑われたアナーキスト・グループのリーダーは、取り調べ中に謎の死を遂げている。警察の発表では投身自殺とされたものの、この事件の真相は未だ明らかになっていないという。フォンターナ広場の事件と同日に発生した他の事件とともに、イタリアは、右左双方によるテロ事件が頻発した「鉛の時代」を迎える。ベロッキオは、この時代に起きたアルド・モーロ元首相の誘拐・暗殺事件を『夜よ、こんにちは』で取り上げていた。ちなみに、フォンターナ広場爆破事件についてはマルコ・トゥリオ・ジョルダーナの『フォンターナ広場 イタリアの陰謀』が取り上げているのだが、事件の捜査を担当する警視として同作の主演を務めていたのが、『甘き人生』の主演でもあるヴァレリオ・マスタンドレアだ。
ベロッキオのフィルムは、イタリア現代史の考察に取り組む。1960年代末に起きた出来事の真相を知ることなく成長する『甘き人生』の主人公の人生は、解明されない事件を残しているイタリア現代史の隠喩だ。『甘き人生』は、イタリア現代史には明らかにされるべき謎がまだ残されていると告げている。
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