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September 24, 2017

『望郷』菊地健雄
結城秀勇

[ cinema ]

この作品を最初に見たとき、なにかもっと大きなものの一部が描かれている、という印象を受けた。それは全体で6つの連作短編からなる原作のうちの、2短編の映画化という事情によるものかと思い、湊かなえの原作を読んでみた。だが、本来それぞれがまったく別々に独立した物語として書かれている原作を読んでみても、その大きな全体像が見えたわけでもなかったし、そもそもひとつひとつの短編がなにかもっと大きなものの一部をなしているという印象も受けなかった。
ではこの「背後にあるなにか大きなもの」という印象は、もともと無関係である「夢の国」「光の航路」というふたつのエピソードを、ふたりの主人公が同級生であったという設定で(そして「石の十字架」という別の短編の要素を蝶番のように用いて)ひとつの物語に繋ぎ合わせた構成によるものなのだろうか。あるいは原作の行間からもすでに読み取れる、造船業の衰退、バブルの崩壊といった社会情勢、あるいは白綱山の観音像の十字架のような歴史といったものが、「白綱島」がそのモデルである因島の姿を借りて映像化されることによってより前景化されたということなのだろうか。そうした理由もないではないだろうが、私が「背後にあるなにか大きなもの」を感じたのはそこではない。
それはたとえばこの映画の前半をなすエピソード「夢の国」のタイトルが提示される場面である。夢都子(貫地谷しほり)が幼い娘に、幼かったかつての自分がどうしようもなく憧れながらも訪れることのできなかった遊園地「ドリームランド」の話をして聞かせる。ゲイリー芦屋による音楽は、「ドリームランド」のテーマソングである軽やかなメロディを奏でつつ始まるが、しかしそれは次第に重々しく沈んだ曲調に変わり、画面は幼き日の夢都子が重々しい門構えの「お屋敷」に帰宅するところを映し出す。その映像と音楽だけを聞くならば、まるでこれから語られるのは数百年単位でその土地や屋敷に根付いた怨念や(たとえば村上水軍でもなんでもいいのだが)亡霊のようなものが登場する、もはや現代に生きる人間にはどうしようもない壮大な悲劇でもあるかのような錯覚がする。
それはあるいはたとえばこの映画の後半をなすエピソード「光の航路」のタイトルが提示される場面でもある。ここでもゲイリー芦屋の音楽は見る者の恐怖を掻き立てるかのように響き、航(大東駿介)が海沿いの掘っ立て小屋に向かって夜の闇の中を駆け抜けるのをカメラは横移動でとらえ、続いて小屋の暗闇の中で血のように赤いペンキに塗れた少女が蹲る姿が懐中電灯の光で照らし出される。そこでもまるでこれから語られるのは、世界を恐怖のどん底に突き落とすような巨大な悪であるかのような錯覚がする。
だがもちろん、『望郷』には数百年単位の怨念も亡霊も、世界を支配する悪の組織も出てこない。語られるのはせいぜいが、旧家の嫁姑問題や中学生のいじめといった、それに比べればちっぽけ極まりない不幸である。だがだからといって、当事者にとっての不幸の程度が、怨念や亡霊や悪の組織という巨大な不幸よりマシであるわけではない。むしろ誰にも語られることなく十数年間ただ当事者の胸の中にだけ秘められていた不幸の、そのちっぽけさこそがここでは問題となっている。
誰もが憧れた「夢の国」は巨大な経済のなりゆきによってもはや閉園する運命にある。島の住民の誰もが目にした巨大な船の進水式は、それを最後にもう行われていない。経済のせいか歴史のせいか、はたまたもっと大きななんらかの理由によるものなのか、とにかく私たちはもはやそうした巨大ななにかを語る契機をすでに失っている。作品全体を通したどこか色褪せた色調は、その巨大ななにかそのものの喪に服しているかのようだ。
夢都子にしろ航にしろ、主人公たちは誰にも語られることのないままだった個人的でちっぽけな問題と向き合い、最終的に長年胸の奥に刺さったままだった小さな棘を取り除くかのように見える。だがそれはかつて子供だった彼らが、その問題に対応できるほどに大きくなったということでは、たぶんない。この映画の最後に、石の十字架を探すために駆け出した夢都子の娘の後を追って、夢都子と航は足並みを揃えて歩く。彼らを追い越したカメラはその同じショットの中に、駆け抜けていく幼かったかつてのふたりの姿をも同時にとらえる。そうした意味で、彼らは大人になることで子供だったときとは違うスケールを手に入れたわけではなく、やはり依然として巨大ななにかに見離された、どうしようもない小ささの中にいる。夢都子が幼いときからすでに「お屋敷」はどこか形骸化したシステムに過ぎなかったように、幼い航が進水式を見ようが見まいが島の造船業の斜陽をどうすることもできなかったように。
それでも彼らは、願いを叶える力を持つ石の十字架を見つけたとしても、もはやかつての自分たちのようにちっぽけな自らの問題の解決を十字架に祈ることはないだろう。だがだからといって彼らがなんの祈りも十字架に捧げることがないということにはならないと思う。そのとき彼らはなにかもっと大きなものの到来を十字架に祈るのではないだろうか。『ディアーディアー』において、登場人物たちの人生を狂わせ、それでも再びそれを目にすることを彼らに渇望させる「幻のシカ」が映画というものそのものの具現化にしか思えないように、『望郷』のふたりが祈りを捧げるすでに失われた巨大ななにかもまた、映画という名で呼ばれるべきものなのではないだろうか。

新宿武蔵野館ほか、全国公開中