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December 15, 2017

『三月の5日間』リクリエーション チェルフィッチュ(作・演出 岡田利規)
三浦翔

[ theater ]

「想像力」の問題は(とくに近年の)チェルフィッチュにとって重要な問いである。「想像力」とイラク戦争という組み合わせを立ててしまった瞬間に、それはこれまで映画や演劇で繰り返されてきた「ここ」と「よそ」の問題、分断を想像力で乗り越えようとする問題形が浮上してくる。しかし、岡田利規が『三月の5日間』で行なっていたことは、そうした「想像力」によって見えない他者や遠くにある世界、劇場の外へと至ろうとすることではないように思える。

『三月の5日間』にとっては、イラク戦争もデモも何もかもは通り過ぎていく出来事でしかない。たとえば、「いまからデモをやりまーす」と言ってはじまるデモのシーンでは、役者がゆっくりゆっくりと歩きデモを俯瞰的に観察する会話によって進む。彼らは、なんとなく参加するだけで自ら外部との関わりを見出そうとはしない。そのような態度自体は悪いことではない。ただし、よくよく考えて見ると、実際のデモではゆっくりと歩くことすら禁止されていて、早く歩かされるわけであるし、参加すれば無関係を装うことは許されず、警察や通行人の視線に巻き込まれる暴力がそこにはある。そのような暴力を排除して構成されたこのシーンは、2003年のデモの紋切り型のイメージであり、社会と閉ざされた若者のリアルが舞台に載せられていたと言えるだろう。

彼らの生が不和を生じさせるのは、終盤にデモが迷惑だと罵倒されてしまうシーンである。ここでは、まるでブレヒト演劇のように観客に背を向けた役者が、大衆の声を代弁した有り得そうな「うるさい」「迷惑」というデモ批判を強迫的に行う。ただし、このデモ批判もまた2003年の閉鎖的な紋切り型であることに注意したい。閉ざされた「なんとなく参加するデモのイメージ」と「それへの批判」という紋切り型同士が不和を起こし、舞台上の2003年のリアルは強く異化させられている。観客はさまざまな立場からこのシーンに対して意見を持つことが出来るし、もっと言えば2017年の積極的にデモを行う若者の立場から考えることも出来るだろう。しかし、そのどれでもなく問題とするべきことは、自分が参加した社会的な行為=デモに参加して演じるという行為が、誰かに責任を問われたとき、言葉で持って応答することの出来なかった2003年の「想像力」が閉ざされたリアルである。このようにして2003年のリアルを舞台にそのまま載せながらも、その「想像力」の閉鎖性を批判していく『三月の5日間』は、岡田利規が投げ掛けたひとつの寓話なのだ。「想像力」は閉ざされている。むしろ問題にするべきはこのことだ。

わたしたちの生は、もはやここが無名の死で溢れた戦場であるかのように、戦争と資本主義の下で分断され名前すらも必要ではないまま、誰かとすれ違いながら生かされ続けている。『三月の5日間』では、ライブハウスで偶然出会った男と女が名前も知らないままラブホテルで「5日間」を過ごし、名前も聞かないままに別れていく物語が語られる。目の前のあなたの名前を覚える必要のないその生は、いかなる共同体も持ちえずにただ生きていくしかないのか。そこで名前を聞けばよかったじゃん。なんで聞けなかったの。「名前って別に要らないからなんですけど二人しかいないときは」と彼らは言う。でももう一度会うために、聞けばよかったじゃん。そう思わずにはいられないのだが、『三月の5日間』はそれでもその弱き選択をこそ肯定しようとする。なぜならこの関係を永遠のものと捉えること、それがすぐさま所有=支配の暴力になることを知っているからだ。彼らはこの奇蹟かもしれない時間を「5日間」限定にすることで、むしろ有限な人間の生を肯定しようとしているのだ。

ただし、それはこの奇蹟かもしれない時間を忘却の海に投げ込むことではない。たしかに「なにも起きていない日常」の「5日間」を特別なものだったと保証してくれる名前はない。それでも、これが演劇であるということにおいて、わたしたちはその「なにも起きない日常」を見ることによって記憶し、救うことが出来る。『三月の5日間』は、特別な出来事の起きる外にもどこにも至れない若者のリアルをむしろ強く繰り返し誇張することで、そこにある生をわたしたちに焼き付けていく。たとえ名前を知ることが出来なかったとしてもこの場限りで見ることの出来た強烈な役者の身振りや声は、記憶の層にこびりつき語り継がれていくだろう。それは、どこか遠くへ(もしかしたらミッフィーちゃんの言う火星へ)わたしたちの生を運ぼうとすることだったのかもしれない。それが「想像力」が閉ざされた2003年の抵抗であり倫理だったのだろうか。これをどう受け取るのかは2017年を生きるわたしたちの自由だが、あまりにも悲しい寓話ではないか。だからこそ『三月の5日間』以降の豊かな演劇たちを知っているわたしたちは、あの舞台の上で語り続けていく役者たちのように一層踊るか、別の答えを探しに行くかが問われているのである。


2017年12月、KAAT神奈川芸術劇場(横浜)にて初演後、 豊橋・京都・香川・名古屋・長野・山口を巡る全国ツアーを開催。


  • 『わたしたちに許された特別な時間の終わり』岡田利規 梅本洋一
  • 『現在地』チェルフィッチュ(作・演出 岡田利規) 梅本洋一