現代詩アンソロジー「認識の積み木」いぬのせなか座『美術手帖 18年3月号 言葉の力。』三浦翔
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誰かが常にいじめられているような荒れた環境で中学校生活を過ごしていたわたしにとって、「死ね」という言葉を使ってはいけないと周りから言われて自制出来るようになったのは、いまから考えれば恥ずかしいほどに遅くて、高校生くらいになってからだったように思う。いまでは関西弁とともに覚えてしまった他の数々の他人を罵倒する言葉も、横浜に来てから関西弁と一緒に忘れてしまった、というか言葉の使い方を忘れている。それは世の中が変わったのか、あるいは自分が属する集団が変わったのか、そんな言葉を吐くことは汚いのだということが無意識レベルで刷り込まれてしまったから、少しでも差別やひとを傷つけるかもしれない言葉を口にしかけたときには、すぐにそれを訂正して自分に恥ずかしさを感じる。それはお酒の席だろうか、冗談を言いたくて周りを考えずに調子に乗っているときだろうか、自分のなかの汚い部分を思い出すときがある。普段はないことが当たり前のコミュニティに生きているから安心して隠せている(見過ごしてくれているだけかもしれない)けれど、世の中からそういう表現がなくなったわけではない。
いぬのせなか座による現代詩アンソロジー「認識の積み木」のなかに『夜空はいつでも最高密度の青色だ』が映画化された最果タヒの「凡庸の恋人」という詩が掲載されている。この詩には「死ね」というあの暴力的な二文字が「凡庸は死ね」というかたちで書き込まれている。「最果タヒの詩は「愛」や「死」といった、日常的に使われ意味が希薄になり、死喩と化した言葉を用いて、「あなた」という固有の存在が持つかけがえのなさや、私だけに固有な私の感情がそれゆえに持つ凡庸さ(すべての存在はみなかけがえのない存在である)、無関係な他者の生に対する無関心などをライトモチーフに、私の死後を生きる他者への肯定の回路を探っています」とアンソロジーのなかで批評されているように、それは特定の誰かの存在を消し去るような「死ね」ではなく、むしろ存在のかけがえなさを救い出す「死ね」なのである。それはどこか自分自身に向けられた、凡庸さを憎みながら愛することで、己の「空虚を断じて譲らない」意志の強い言葉にも聞こえてくる。
今回の美術手帖「言葉の力。」特集のなかで2000年代以降の現代詩からのアンソロジーという、いぬのせなか座に与えられた枠組みは、この「死ね」という言葉の扱い方に象徴されるような、デジタル以降の時代に起きた大きな言葉の変化を捉える鋭い批評性を持つものになっている。わたしたちの時代にとって言葉を問うことがなぜ重要なのかは、携帯電話とTwitterなどSNSの全般的な普及によってコミュニケーションの回路が大きく変質したことに伴い、一度に送るのに適切な言葉は断片的に短くならざるを得ず、その結果共感的なコミュニケーションがこれまでよりも支配的になってきたことであろう。その大きな問題は、あまりの速度の速さによって個々人の微妙なニュアンスが消えてしまうことにある。特に3.11以降は、良くも悪くもその共感の早さによって日本に新たな社会運動の波が発生し、一方では不謹慎かもしれない発言を極度に控えなければいけないという、どこか気の抜けない空気をも作り出してしまった。そこには個人的な、やり場のなさを抱えた暴力的に不器用だが切実なニュアンスを抱えた言葉たちが存在する余地はあるだろうか(アンソロジーのなかで、こうした不器用な言葉を蒐集する戦いを最も突き詰めているのは山田亮太「みんなの宮下公園」であろう)。SNS上で飛び交う不器用な言葉たちは、分脈を共有出来ない他者にとっては暴力となり、そのまま社会問題となってしまうこともあるだろうし、その結果社会から見捨てられてしまう誰かも存在するだろう。こうして蛸壺がどんどん細分化されていく。
そんなTwitterの投稿たちを詩が並んでいると見てしまうこと。そこにひとつの闘いの場があったのだ。この断片化された表現のメディアを創造の回路と見なす問いは、いぬのせなか座が現代詩の問題を「改行」による「レイアウト」の問題と設定するところにある。言葉が物質的な紙面の上に「レイアウト」されて生じる「改行」によって、読むという行為が立体的なリズムを伴う身体的な行為になる。そこに「わたし」という存在を異物たちのなかに折り込み再配置する「共同性」をいぬのせなか座は見出そうとしているかに見えるのだ。ただしTwitterから見出されもする可能性はそのまま、高速で流れ続けていくSNSを肯定するわけではないことに注意したい。その言葉たちが、印刷され作品として固定化されることによって、あるいはかけがえのない身体を通して発話されることによって、はじめて「レイアウト」の問題は可能となるのではないかということは付言しておきたい。蛸壺化を続ける世界から抜け出す道は何も見えないが、これからの時代に戦い得る言葉の使い方の羅針盤としても、この「認識の積み木」というアンソロジーないし、「言葉の力。」という特集の切り口が、これから有効な手立てを教えてくれそうな気がするのである。