『あなたの旅立ち、綴ります』マーク・ペリントン結城秀勇
[ cinema ]
庭師に代わって木を刈り込み、美容師に代わってヘアスタイルを仕上げ、メイドに代わって料理をする。シャーリー・マクレーン演じるハリエット・ローラーは、雑務を自分で行う必要がないほどの財力を持ちながら、それらを完璧に自らこなす能力と意志を持つ。ただしそれと引き換えに、手入れした庭を訪れる友人もなければ、新しい髪型を褒めてくれる同僚もなく、手の込んだ料理を共に味わう家族もない。ここまでなら、よくある気難しい老人の人生の総決算ものか、という感じなのだ。
以上のことを淡々と描き出すオープニングの途中で、ハリエットは薬の錠剤を4粒取り出して赤ワインと共に呑み込む。翌朝、緊急搬送された病院で医師は彼女にこう告げる。「あなたは不注意で事故を起こす人とは思えない」。医師の言う通り、彼女が極度に「コントロール」の人だということは、映画が始まって10分も経たずに誰もが気づく。しかし、今度は意図せぬアクシデントなど起こらぬようしっかりと数を増やした錠剤を再び赤ワインで流しこもうとした瞬間、袖に触れたグラスは倒れ、テーブルの上に赤い液体が広がる。ハリエットが「コントロール」できなかったアクシデントとともに、この映画のストーリーは動き出す。
ワインを拭くために使った新聞紙の訃報欄を目にしたことで、ハリエットは生前に自らの訃報記事を書いてもらうことを思いつき、若い訃報ライター・アン(アマンダ・セイフライド)に自分が素晴らしい人生を生きた証となるような記事を依頼する。それは言わずもがな、死さえも「コントロール」したいという彼女の姿勢の表れであるし、かつハリエットの望み通りの記事を仕上げるために必要な要素ははじめからわかっている。要はひらたく言えば、家族や友人や同僚から愛されたと書かれることが必要だと。それはハリエットが「コントロール」と引き換えに失ったものである。
よくある老人の人生総決算ものならば、彼女がこれまでの人生で積み上げてきた財産とそれによる負債を手放すことで、代わりに家族や同僚や友人からの愛を手に入れる、となるところだろう。いや、この作品もぱっと見、もしかしてそうなったのか?とも思えなくもない。さすがはマーク・ペリントン、『プロフェシー』の「予言」も『ヘンリー・プールはここにいる』の「奇跡」も、「たしかにそうなったけど、だからなに?」というものだったように、ハリエットの「人生の総決算」もまた、なにかがたしかに変わりはしたのだろうが、はたして変わったのは彼女自身なのか、周りの人間なのか、それとも変わったように見えるだけで実はなにも変わっていないのか、よくわからない。
ただひとつだけ言えるのは、やはりハリエットは「コントロール」を最後まで手放すことがなかったのだ、ということだろう。長年会っていなかったハリエットの娘は、「コントロール」は人格的な問題ではなく病なのだということ、その「コントロール」という病を治療しさえすれば、またあらたに家族という関係性を築き直すことができるのだとハリエットに告げる。だが彼女にとって、成功と能力と孤独の象徴である「コントロール」は、同時にまた幼き日に憧れていたラジオDJが彼女に教えてくれたものでもあり、それは病的な習性や癖というよりもどちらかといえば、意志の問題なのだ。だから彼女の「コントロール」は、この制御社会に生きる人々のトレンド(死すらコントロールしたい欲望)を為すと同時に、音楽をはじめとする様々な情報の「圧縮」に抵抗する契機にもなる。そうした意味において、元夫(フィリップ・ベイカー・ホール)の「彼女は唯一、自分が間違っていたと気づかされたときに笑う」という証言は理解されるべきではないか。彼女の笑いは、自身の完璧な「コントロール」すら巨大ななにかの制御下にあると気づかされたときに生じる。それは彼女が「コントロール」を放棄する瞬間ではなく、それでもなお「コントロール」を「それが私=I am who I am」だとして続ける瞬間なのだ。
この映画を見て、「自由とは、他者に対して行使される権力の直中で自己自身に対して行使される権力のことである」というミシェル・フーコーの言葉を思い出した、と言ったら言い過ぎだろうか。たぶん言い過ぎだろうし、同意してもらえるとも思わない。でも、『あなたの旅立ち、綴ります』という作品がいい映画だ、というささやかな賛辞には同意してくれる人は結構いる気がする。