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May 12, 2018

2018 カンヌ国際映画祭日記(2) 各部門の開幕上映作品をめぐって
ーーコンペティション/ある視点/監督週間/批評家週間
槻舘南菜子

[ cinema ]

 カンヌ映画祭のコンペにおける開幕上映作品は、フランス映画であるか否かを問わず、フランス国内での劇場公開が上映日とほぼ同日に為される作品が選ばれる。そこにはもちろん製作会社やワールドセールス、映画祭の政治的な思惑も関わるため、作品のクオリティは必ずしも重要視されていない。今年の開幕上映作品であるアスガー・ファルハディ監督作品『Everybody Knows』は、おそらく彼のキャリアにおいて最悪の出来だったが、この作品がフランスとの共同製作であることはもちろん、実生活でもカップルであるペネロペ・クルスとハビエル・バルデムのダブル主演であることが選出の大きな決め手であったことは想像できる。昨年、ティエリー・フレモーがミシェル・アザナヴィシウス監督『グッバイ、ゴダール! Redoutable』とアルノー・デプレシャン監督『イスマエルの亡霊たち』の間で悩んだ結果、マリオン・コティヤールとシャルロット・ゲンズブールという世界的に有名な二大スターの共演を理由に、後者を開幕上映作品として選んだことから見ても今年の開幕作品にファルハディの新作が選ばれた理由は明らかだろう。

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セルゲイ・ロズニッツア監督『Donbass』

 今年の「ある視点」部門については、18本中13本が監督処女作か2作目となる作品が占めたことで「若手監督部門」といった趣を有しているが、開幕に選ばれたのは、カンヌのコンペ部門にもすでに3度ノミネートしているウクライナのセルゲイ・ロズニッツア監督『Donbass』だ。そのキャリアを考えるに、この作品はコンペのセレクションから漏れた結果としてこの「ある視点」部門へと流れてきたのだろう。内戦下にあるウクライナの東部地方「Donbass」を舞台とした本作に主人公はおらず、複数の登場人物を巡るエピソードーー病院に現れ配給物資を漁る男、ドイツ人のジャーナリストを詰問する兵士たち、裏切り者を路上で集団でのリンチする兵士と一般市民ーーが連なりながらも、決して接続されることも重なり合うこともない。最後のワンシーンは、不連続に見えるあらゆる全ての行為がコントロール化にあることを示唆するものだったが、そうした演出においてウクライナとロシアの政治的な関係などの文脈を離れて映画的な驚きや発見があったかといえば疑問が残る。
 それら公式部門の開幕上映作品の選択が、さまざまな政治的なしがらみやコンペティションとの関係に影響される一方で、ふたつの併行部門、監督週間部門と批評家週間部門の開幕作品は、その年のセレクション全体のクオリティを図るひとつの基準として見ることができる。監督週間の開幕上映作品は、前作『彷徨える河』が日本でも公開されたシーロ・ゲーラ監督とクリスティナ・ガジェゴ監督との共同監督作品『Birds of Passage』であった。コロンビアを舞台に60年代から80年代に起こった実話をもとに、ドラッグの取引をめぐる二つの部族間の血で血を洗う抗争を描く。『彷徨える河』と同様、地域性を捉えた強い人類学的な要素こそ見出せるも、後半に向かう展開には登場人物の造形の発展はなく、演出はクリシェそのものといっていい。2012年から同部門のディレクターを務めるエドゥアール・ワイントロープの最後の年であり、監督週間の50周年を記念する開幕作品としてはあまりにも脆弱ではないか。

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ポール・ダノ監督『Wildlife』

 対して、批評家週間の開幕上映作品、俳優ポール・ダノの処女監督作品『Wildlife』は、趣こそクラシックではあるが良質な作品だった。父親のリストラがきっかけで、家族が崩壊していく姿を息子の目線から描いていく。無垢な視点であるがゆえに、眼前で起こる出来事の残酷さが際立つ。キャリー・マリガンとジェイク・ギレンホールの俳優としての力に頼った部分が多いことは否定できないが、登場人物の感情を発露させる様々なディテールと演出には、ポール・ダノの映画監督としての才能を感じずにはいられない。今年のカンヌにおける開幕上映作品の軍配は、批評家週間に上がった。