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May 14, 2018

2018 カンヌ国際映画祭日記(3) 白と黒の恋人たち
ーー『Summer (Leto)』(キリル・セレブレニコフ)と『Cold War(Zimna Wojna)』(パヴェウ・パヴリコフスキ)
槻舘南菜子

[ cinema ]

 今年のコンペティション部門には、ある時代に翻弄されたカップルという共通点はありながら、その趣は異なる二本のモノクロ映画がノミネートした。ロシアのキリル・セレブレニコフ監督『Summer (Leto)』とポーランドのパヴェウ・パヴリコフスキ監督『Cold War(Zimna Wojna)』だ。

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キリル・セレブレニコフ監督『Summer (Leto)』

 キリル・セレブレニコフにとって7本目の長編となる『Summer (Leto)』は、ソ連の共産主義体制下に活動した80年代アンダーグラウンド・ロック歌手、ヴィクトール・ツォイの伝記の映画化である。劇中にはヴェルヴェット・アンダーグランド、トーキング・ヘッズ、T-Rexなどが響きわたり、ミュージシャンの世代交代を介してその時代の世界の変化を映し出す。当時はライブ会場で立ち上がることも許されなかった若者が、最後にはその欲望を抑えきれず踊り出すのだ。アヴァンギャルドかつキッチュでもあるような映像へのスクラッチなどの加工、モノクロの画面に度々登場するカラーのワンシーンや挿入されるミュージカルシーンは、観客にある種の快楽を与えることは確かだろう。だが、それはたんに一時的かつ瞬間的なものであり、その絶え間ない繰り返しにゆえに、映画自体が長すぎるヴィデオクリップのように見えてしまう。また、主演女優はまさにフォトジェニックな存在ではあるが、彼女の姿からは感情の動きはまったく見えず、たんなる美しいオブジェとしてのみ捉えられており、決定的にエモーションが欠落している。ひとりの女性をめぐる物語には苦悩や悲壮感はなく、ただただ軽く、残念ながら全く説得力がない。しかしこの作品の持つ自由や軽さというのは、昨年のコンペ部門にノミネートしたアンドレイ・ズビャギンツェフ監督『ラブレス』と同様に顕著なことだが、昨今の現代ロシア映画からの現代社会への暗喩に満ち、「冷たく残酷な演出」というクリシェな作家主義的な作品のあり方とは一線を画している。そのような作風に対して、キリル・セレブレニコフ自身が自宅拘束とされ映画祭に参加ができなかったことは皮肉だ。


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パヴェウ・パヴリコフスキ監督『Cold War(Zimna Wojna)』

 そしてもう一本のモノクロ作品『Cold War(Zimna Wojna)』もまた、東西冷戦下という政治的な背景のもと、ある音楽家が舞台公演のオーディションで出会った若く美しい女性と恋に落ち、彼女のその美貌と歌手としての才能に惹かれていく物語だ。芸術への政治的な抑圧に耐えかねた末、ふたりはフランスへ亡命する。主演女優はレア・セドゥを思わせる顔立ちで、男たちが彼女に惹かれてしまうのも彼女の眼差しを見れば当然のことだといえよう。とにかく最初から最後のワンシーンまで、息を飲むほどの美しい映像美に徹底した作品で、その点ではたしかにきわめて映画的な作品とみなせるも、しかし一方で様式美に偏ったオートマティズムの産物とも思えてしまうところが悩ましい。
 政治的な時代背景を有しながらも、ただたんに男女が出会い、恋に落ち、惹かれあい、離れ、再び出会う、といったとてもシンプルかつ幸福な趣を有するこの2本のモノクロ作品がコンペ部門にノミネートしたことは、近年のセレクションに比較すれば大きな変化と言えるだろう。ここ数年のカンヌは、作品のテーマの社会性や同時代性ばかりが先行し、映画としての美学の問題からはかけ離れた作品があまりに多すぎたのだ。今年度にしてもコンペ部門のエヴァ・ヨソン監督『Girls of the Sun (Les filles du soleil)』は、その流れにある典型的な一本だった。自由と解放を求めて命を落としたクルディスタンの女性闘志を担保に、「Me Too運動」の流れに追従しただけのその作風は、皮肉にもその果敢な主題に反して、映画祭に向けた作品の「売春行為」を正当化してしまっている。