2018 カンヌ国際映画祭日記 (4) 「監督週間」部門50周年によせて 槻舘南菜子
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現在ではカンヌ国際映画祭の併行部門とされる「監督週間」部門は、そもそも68年5月を機に映画祭が中止に追い込まれたのちの反動として、非公式部門として創設されたものだった。当時のフランスにおける若手監督の多くは、カンヌのセレクションに対する反感を隠さなかった。芸術的な視点以上に、外交的な政治目的に縛られ、惰性に流された当時のセレクションを変革するためには、映画祭の再編成が必要であると考えたのだ。しかし上層部の抵抗により、公式部門の組織の枠組を転覆させることは簡単ではなかった。その結果、当時はリールでシネクラブを主催していたピエール=アンリ・ドゥローが監督週間の責任者として任命されることとなり、その後30年間にわたって監督週間の指揮を執った。今年2018年はその「事件」から50周年の記念の年に当たる。パリ、シネマテークフランセーズではそれに先立ち1969年の監督週間で上映された作品の回顧上映(http://www.cinematheque.fr/cycle/l-edition-1969-de-la-quinzaine-des-realisateurs-443.html)を企画、5月9日からはカンヌ市内の映画館でもそのプログラムが巡回されている。それと同時に「Cinéma(s) en Liberté」と題された展覧会もカンヌで開催されている(以下は監督週間の50周年記念の情報 [英語]/ https://www.quinzaine-realisateurs.com/en/quinzaine50/)。
また50年の歴史を振り返る小冊子(Vol.1-5)には、アレハンドロ・ホドロフスキーのドローイングとともに、ラズロ・サボ、リュック・ムレ、足立正夫、ヴェルナー・ヘルツォーク、ケン・ローチ、アトム・エゴヤン、ビクトル・エリセ、パブロ・ララインなど、同部門から世界へ羽ばたいた監督たちによるテキストが掲載されている。さらに、監督週間の選考委員の一人であるブルーノ・イシェによる Quinzaine des Réalisateurs, les Jeunes Années 1967-1975 という書籍も出版された。本書には著者自身が手がけたデッサンとともに、その熱気を帯びた最初の数年間のことが、多くの証言者による逸話とともに紹介されている。とりわけ、ヌーヴェル・ヴェーグ以後に彼らの影響下で映画制作を始めたザンジバールというグループ(その詳細は過去の記事を参照)の庇護者、シルヴィナ・ボワソナによる証言は映画史的に見ても非常に貴重なものだろう。70年代初頭に完全に映画からは離れフェミニズムに傾倒した彼女は、それ以来、ザンジバールグループはもちろん68年当時について語ることを拒否してきたからだ。このグループに参加したものの中で、のちに最も名を広めたフィリップ・ガレルも、彼女の金銭的な援助により『現像液』『集中』『処女の寝台』『内なる傷痕』を制作することができたのである。現地カンヌでは、14日に創設者であるピエール=アンリ・ドゥローはもちろん歴代のディレクターと新任パオロ・モレッティとともにこれまで監督週間に選出された映画監督たちが集合し、大々的なイベントが開催された。
しかしながら、体制に対する反動の象徴であったはずの監督週間の今年のセレクションは、そのアイデンティティとはまったくかけ離れたものだったと言わざる得ない。とりわけフランス映画のセレクションに関しては、2012年からディレクターを務めるエドゥアール・ワイントロープの嗜好に従順な、国際性に欠けたフレンチ・コメディばかりが目立ち、ラディカルさどころか芸術性すら微塵もなかった。来年から監督週間を率いることになっているパオロ・モレッティは、仏ラ・ロッシュ=シュル=ヨン国際映画祭の現ディレクターであり、またフランスで最も先鋭的な映画祭と名高いマルセイユ国際映画祭(FID)の選考委員でもある。ヴェネツィア国際映画祭、ローマ国際映画祭ではマルコ・ミュラーの右腕として活躍した華々しい経歴を持つ人物だ。オリヴィエ・ペール(2004〜2009)以降、停滞の続く監督週間が来年から新たに息を吹き返すことに期待したい。