『ジェイン・ジェイコブズ:ニューヨーク都市計画革命』マット・ティルナー中村修七
[ cinema ]
ジェイン・ジェイコブズ(1916‐2016)の生誕100周年に合わせて製作されたドキュメンタリー映画だが、"Citizen Jane: Battle for the City"という原題にある"Citizen Jane"とは、言うまでもなく、オーソン・ウェルズの『市民ケーンCitizen Kane』になぞらえたものだろう。『市民ケーン』は、ウェルズの監督デビュー作にして映画史に残る傑作だ。アンドレ・バザンはウェルズの手法を「映画言語の革命」として評価した。ジェイン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』も、専門の建築教育を受けたことのない人物による著書でありながら都市論の古典となった。このような事情を踏まえるならば、次のように述べてみることもできるかもしれない。すなわち、ジェイン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』は都市論における『市民ケーン』だ、と。
ただし、「市民ジェイン」ことジェイン・ジェイコブズとオーソン・ウェルズが演じた「市民ケーン」とはまったく異なるタイプの人物だ。むしろ、強大な権力を持つ新聞王となった「市民ケーン」に近いのは、ジェイン・ジェイコブズの敵対者となった、ニューヨークの公共事業における実力者であるロバート・モーゼスだ。モーゼスは、ニューヨークの公共事業界において戦前から戦後にまたがる長きにわたって様々な役職に就くことで権力を行使した。映画が依拠したと思われるアンソニー・フリントの著書『ジェイコブズ対モーゼス ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』には、モーゼスの経歴が詳しく書かれているし、映画が取り上げるエピソードの多くも取り上げられている。また、映画の出演者にはアンソニー・フリントも含まれている。
『市民ケーン』において、新聞王ケーンの没落は彼が市民の意見を自分の意のままにできると考えるようになったときから始まっていた。このような考え方は、ロバート・モーゼスに通じる。権力者は、自分の考えに人々を従わせることができると考えがちだ。映画では第二次世界大戦の戦前と戦後でモーゼスが変化したとされていたが、変化のきっかけは彼が絶大な権力を握るようになったことにあるだろう。
活動家としてのジェイコブズは、モーゼスが強引に推し進めようとする計画に反対するために近隣住民を組織し、3つの計画を潰した。しかし、ジェイコブズは、都市計画に反対した活動家であるだけではなく、優れた理論家でもあった。理論家としてのジェイコブズは、経験的に学んだことを通して権威に異議を唱え、都市において多様性が重要だということを主張した。都市に多様性をもたらすものとして、混合用途、小さな街区、古さの異なる建物の混在、人々の密集という4つの条件を彼女は挙げた。これらの条件を掲げて彼女が都市のあり方を変えたのはニューヨークだけではない。柄谷行人は、ニューヨークののちに移り住んだトロントでもジェイコブズは都市を変えたとして、ジェイコブズが都市計画を批判することで開示したようなユートピア主義を評価していた(『柄谷行人講演集成1995-2015 思想的地震』)。
マット・ティルナーの映画を見ると、好奇心旺盛で利発な少女がそのまま大きくなったかのようなジェイコブズの姿が印象に残る。彼女は、興味のおもむくままに都市を歩き、都市をよく観察した。『アメリカ大都市の死と生』において、都市の街路での人々の振る舞いを彼女は「バレエ」に喩えていた。また、街路がおもしろそうならその都市もおもしろそうだと彼女は述べていた。「おもしろさ」という観点から現在の東京の都市開発を見ると、資本を動かし続けるため巨大な建造物をつくることや古くなった建造物を取り壊すことへと力が注がれており、街路と人々への視点が欠けているように感じられる。まるで、おもしろい街をつくるためではなく、工事現場をつくり続けるためにばかり金と労力が費やされているかのようだ。
映画の冒頭では、『アメリカ大都市の死と生』第12章の最終部分が引用されていた。それは次のような部分だ。「都市はあらゆる人に何かを提供してくれる能力を持っていますが、それが可能なのは都市があらゆる人によって作られているからであり、そしてそのときにのみその能力は発揮されるのです」。都市は人々によってつくられるとしたジェイコブズから学ぶべきことは今も多いと思う。
ところで、映画を見たのちに考えていたのは、梅本洋一さんのことだ。梅本さんは、Nobodyのサイトで連載していた「週刊平凡」を見ても分かるように、都市への関心が高く、『ジェイコブズ対モーゼス』も読んでいた。梅本さんならば、どのようにこの映画を見ただろうか。そして、2020年の東京五輪開催に向けて開発が進む現在の東京について、梅本さんならばどのような意見を述べただろうか。