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May 17, 2018

『心と体と』イルディコー・エニェディ
三浦翔

[ cinema ]

 若い女であるマーリアと老年の上司エンドレとの恋愛関係を描くことにはリアリティがないとか、それはセクハラを誘発する表現である、などという批判の声が聞こえてくるかもしれない(似たような意見をTwitterで見てしまった)。そのような#MeToo時代の空気から来る違和感の声には、そもそも同じ夢を見てしまうという奇異な設定から、この作品はリアリズムではないのだと言って批判をやり過ごすことも出来るであろう。それでも、ここでは敢えてそうしたフィクショナルな設定をカッコに括って、この映画の問題は映画的なリアリズムなのだと言うことには意味がある。もっと言うならばこの問い掛けは、#MeToo時代の映画の在り方について問うことかもしれない。

 若いマーリアに老年のエンドレが好意を持って声を掛けるとき、そこにはある種の緊張感が宿る。マーリアはエンドレが好意を持って声を掛けてきたことを迷惑だ、とでも言わんばかりにやり過ごす。その時点で多くの観客はマーリアのちょっと冷たい性格と、若い女に老年の男が話し掛けるならば当然の反応だ、ということを読み取ることになるであろう。しかしながら、本当はマーリアがそのとき何を想っていたのか、そこで交わされたダイアローグから読み取ることは出来ない。なにを想っていたのか観客に明かされるのは、彼女が帰宅後にその日のエンドレとの会話を、塩ともう一方はおそらくコショウのミルをふたりに見立てて小さな人形劇を行うシーンである。そのシーンでは交わされたダイアローグに加えて、マーリアが心の中で思っていたことが声に出され、マーリアから見てエンドレが何を思っていたのかも語られる。マーリアは、行動とは反対に実はエンドレを求めていたことが読み取れる。

 このとき以来、ふたりが微妙にすれ違いつつそれをエンドレが残念な方向に解釈してしまいながらも徐々に近づいていくふたりの映像は、その裏に抱えた目に見えない気持ちを観客が知っていることによって、「心と体と」に二重化される。この映画に出てくる登場人物たちの映像は、こうした基本的な映画の技術によって二重化され、彼らが目に見えない相手の想いを、ときには誤解し一方では思いやって行動する過程が描写されていくのだ。物語を追いかけるのは、これから映画を見る人のためにもこれくらいにしておく。

 『心と体と』という心身二元論的なタイトルが示すのは、映画においても現実においても目に見えて自分が考えてしまうことと相手が想っていることはすれ違ってしまう、という繰り返される物語である。たとえ同じ夢を見てしまう相手であってもそれは変わらない。むしろ同じ夢を見てしまうことはほんの小さな奇跡に過ぎない。この映画で重要なのは、同じ夢を見てしまうことで相手の「心」が分かってしまうことではなく、そんな奇跡で繋がっているはずのふたりになおも存在する距離を、それでも目には見えない相手の気持ちを思いやるやり取りにあるのではないか。映画は画面に映せるもの以上のことは語れない。原理的には目の前に映っている相手が本当は何を考えているか知ることは出来ない(観客が知っていると感じるのは、ヴォイスオーヴァーによって内面を告げられるか物語の構造によって予測させられているに過ぎないからだ)。それは現実もそうなのである。

 #MeTooの時代に、これはセクハラなのかパワハラなのか「不安」で悩んでしまう男性がいると聞く。その「不安」はなによりも相手が本当は自分のことをどう思うか、分からないということによるのが大きい。だからといって何をやってはいけないかどうか会社で全て決めて欲しい、なんて言ってしまう男性には「甘えるな!自分で考えろ!」と言わなければいけない。セクハラやパワハラ紛いの間違いを犯せば、誰に対してもすぐに謝り自分の発言を修正し会話を続けていくエンドレを見よ!自分が発した言葉や自分の行動が相手に嫌な思いをさせてしまうかどうかなんて、究極的には分からないのだからこそ、勇気を持ってお互いを思いやるやり取りをやめてはならない。そうでなければ、年の差や身分を超えた相手との関係も(友人関係であれ恋愛関係であれ)築きようがないし、私たちの多様な人間関係の可能性は見えない他者への「不安」によって閉ざされてしまうだろう。『心と体と』という映画はそんな「不安」の時代に、他者との間に生まれるロマンスの存在をそれでもなお肯定している。

 念のため付け加えておくが、#MeToo運動で勇気を持って告発する女性たちを僕は(ほぼ)例外なく応援する。そこに単純化しきれない個々の事情が存在するのは確かであるとしても、#MeToo運動はこれまで抑圧されてきた女性の社会的な構造上の立場を変えるための運動であるからだ。だからこそ公的な社会の状況が変わりゆくなかで、映画は一方でわたしたちの多様性こそを描き戦わねばならないと思われるだけなのだ。若い女と老年の男の恋を描く(ある意味では反時代的に捉えられかねない)この映画は、そうした戦いを抱え込んでいる。とはいえ一方でそんなことを気にしない観客にとって、取るに足らない物語を描いているとか、やっぱり女性を神話化しているとか、そういった作品の評価はあり得るとしても、何より金熊賞という国際的評価を与えられたこの映画を巡って、映画と世界の現在を考えてみることにはそれなりの意義があるのではないだろうか。


【2018年4月14日(土)新宿シネマカリテほか全国順次公開】