『ルイ14世の死』アルベール・セラ
三浦翔
[ cinema ]
上映中に「お前はもう死んでいる」というフレーズが頭によぎってからは、フィルムに映った権力者どもにそう言ってやりたいフラストレーションが募る。
極めて唯物論的な方法で王の死のスペクタクル化を拒否するこの映画で問題にすべきは、監督がインタビューで述べるような「死の陳腐さ」にあるのではなく、むしろ王という特別な存在のイメージの「死ななさ」ではないだろうか。「死の陳腐さ」も、彼に死が近づいていることも、現代を生きる観客にとっては見るに明らかであるのに、それに反して従者を従え権力を握ったままの王のイメージは、ゆっくりと肖像画のように永遠化されていくかのようだ。そこには死と向き合う人間の複雑な感情というよりも、権力者のベールを脱ぐことなく俗な人間の感情を表に出さないところから、死と向き合い受け入れることの出来ない無感情を見てしまう。
そうしたイメージと権力の問題に加えて、より徹底して問わなければいけないのは、医学ないし科学の問題である。それは最後の王の治療が上手くいかなかったことに対し「次はうまくやりますから」という、次なんてないにも関わらず、死の反復不可能性を科学によって乗り越えようとしてしまう周りの態度にある。足だけでなく臓器などが、壊死していることをひとつひとつ丁寧に確認しながらもそのような言葉を放ってしまう者たちにとっては、生も死も(いわゆる)肉体と切り離されていくものとなっているようにも思えるからだ。そのようにして、いつまでも彼らが保持するこの王のイメージ=身体とはいったいなんなのか。
この映画がありきたりなスペクタクル批判で終わらないのは、徹底的に唯物論的に再構成された死のプロセスのなかで交わされる王と従者たちのやり取りの中に、王の権力の在り処(もしくは喪失)までもが唯物論的に示されているようにも感じるからである。それは権力の無根拠さを観客の眼前に突きつけることでもある。王のイメージ=身体が権力者としていつまでも「死なない」のは、この無根拠な手続きによるものでしかない。
しかしながら、わたしたちまでもが逆に王の「死ななさ」に魅了されてしまっていいのかという疑問が残る。むしろ有限な生を倫理的に生きるべきだと考える自分にとっては、王の死のイメージに魅了されるのではなく「お前はもう死んでいる」と権力者たちに言いたくなってしまう感覚の方を大事にしたいと思うのである。