『モリーズ・ゲーム』アーロン・ソーキン
結城秀勇
[ cinema ]
FBIに踏み込まれる直前の、モリー・ブルーム(ジェシカ・チャステイン)のホテルの部屋。カメラは入り口からモリーが横たわるベッドへと進むが、その途中に置かれた彼女の著書「モリーズ・ゲーム」の在庫のダンボールの山と、著者サイン会のパネルがやけに気にかかる。単に彼女の本があまり売れてない、というかむしろ売上はかなり残念な感じだ、ということを示すだけのトラベリングなのだろうが、これでいいのかと思ってしまう。......カメラワークではなく、本のデザインが。
白バックの表紙の左半分を著者の写真の切り抜きが占める、なんと言ったらいいのか、他に表現が見当たらないがとにかくバカっぽいデザインの本、その著者が主人公の映画がアーロン・ソーキンの初監督作なのか、と意外に思う。それを『ゼロ・ダーク・サーティ』や『インターステラー』でバリバリのキャリアの女性を演じたジェシカ・チャステインでやるというのもなんなのか。いや、そもそもそこまでナレーションで語られてきたモリーの半生は全然バカっぽくなかったがどういうことなんだ......、と。おそらく、この映画のタイトル『モリーズ・ゲーム』が示すのは同名の自伝に書かれた内容としての彼女の半生というよりも、このバカっぽいデザインの本そのものなのだ。内容を聞きかじる限りどうもそれにそぐわない表紙を持っているかに思える本、その「そう見えなさ」を指しているのだ。
「そう見えないこと」は、少なくとも2010年以降アーロン・ソーキン脚本の作品がなんとなく気にかかるようになってから、彼の関わるどの作品にも付いてまわる要素だった。全世界規模の内容の話でありながら、小さな会議室ひとつで終始してしまうかのようなスモールワールドである『ソーシャル・ネットワーク』。そして同作や『マネーボール』の中で、そのすごさや大きさとは無縁に文字通りのものとして視覚化され音声化される数字(『モリーズ・ゲーム』冒頭のナレーションもまた、多くの数字を巡るものになる )。「ニュースルーム」第一話の感動も、「そう見えた」けどありえないから幻覚だと思ったものが、本当に存在していたということに尽きる(『マネーボール』最大の感動も、「そう見えない」だけでフレーム外で起こっていた出来事に由来する)。
件の自伝の表紙にはじまり、意外と胸あるんだねジェシカ・チャステイン、と思わせる彼女の胸を強調した衣装が(途中で、もういいよ!と思うほどに)続き、これはもう「そう見えないこと」についての映画なのだなとすぐ気づくが、しかし論点がいったいどこにあるのかがうまくつかめずに見ていた。彼女が弁護士になにか隠しているかどうかが問題なのか?それとも偽名で書かれている(映画上は別人が演じている)人物が誰なのか推測して楽しめ、ということなのか?
だが実際は拍子抜けするほど単純なことだったのだ。問題は、本を読めばそこに書いてあることなのに、読みもせずに表紙がバカっぽいとか言ってること自体だったのだ。モリーとは、「そう見えない」ことの咎を一身に背負わされた女性である。「ウォール街の連中が日常的にやっていること」よりも些細な罪を、男たちが彼女が「そう見えない」という理由だけで過度に膨らませたものを、背負わされた女性である。そしてその重荷を投げ捨てることだってできたはずなのに、なんの見返りもないのに、あくまでそれに責任をとろうとする女性である。
そのことにに気づかないのは男性だけで、モリーが依頼しようとする弁護士の娘は一瞬で見抜く(「写真とは違うのね」 )。そして父親が本を読み終えもせずに判断しようとしたことを、彼女はちゃんと本を読んで判断する。同じことがたぶん、「そう見えない」けど賭場育ちだったり、コードが書けたり、サウジの王族のだいたいと友達だったりするプレイメイトたちにも言える。彼女たちが当たり前に気づくことを、男たちは最後の最後になるまで気づかない。かくいう自分も、モリーの父を演じるケビン・コスナーの、「そう見えなかった(didn't appear)だけ」というセリフを聞くまでは気づかなかったのだから、偉そうなことは言えないが。
正直に言うなら、これまでジェシカ・チャステインのあの骨ばったどこか神経質そうな顔がどうも好きになれなかった。だが、「私はモリー・D・ブルーム。それ以外の誰でもない」と司法取引を拒むときの彼女の顔、そして判決が下った後で「これからどうしたらいいんだろう?」というナレーションと共にあるあの顔を見たときに、たぶん「そう見えなかっただけ」でそこにあったものを見落としていたのかもしれない、という気にさせられた。