『レット・ザ・サンシャイン・イン』クレール・ドゥニ
結城秀勇
[ cinema ]
イザベル(ジュリエット・ビノシュ)は画家である。彼女の作品は恋人のひとりによって「世界最高の美を作り出している」とまでに評されるのだが、そうまで言われる彼女の仕事を、観客は十分に目にする機会に恵まれない。たった一度、彼女が巨大なキャンバスの上でなにかをおもむろに描き出すのを目にするだけ、またその前後でアトリエの片隅に置かれたおそらく彼女の作品なのであろう絵が画面の端に映り込むだけである。またイザベルは、別れた夫との間にローティーンの娘たちを持つ母親でもある。だがたとえいくつかの会話の端々で母親としてのイザベルの姿が垣間見えるとしても、彼女の娘自体が画面に姿を現わすのはまさにほんの一瞬である。
職業や家庭内での役目といった社会的な役割、いわば我々が普段映画を見る際にあるキャラクターの背景として自然に見て取ってしまうようなものが『レット・ザ・サンシャイン・イン』にはごっそり欠けている。このことはイザベルだけではなく、彼女となんらかの関係を持つ男性たちや、男女を問わぬ彼女の友人たちにも言える。しかしそれは、この映画の登場人物たちがそうした社会的役割とまったく関わりなく生きている、ということを意味するのではない。むしろ彼らがそれなりの社会的役割を持つということがセリフの上でかなり明確に語られているにも関わらず、そのことが映像として映し出されないことの重要性を強調したいのである。そうした意味で、撮影監督のアニエス・ゴダールの次の言葉は示唆に富んでいる。「シーンは作品をモザイク状に形づくる断片です。舞台設定はときに、ベッドや窓、ドア、カフェのシートといった2、3の要素にまで切り詰められます。(......)顔のクロースアップ、言葉、すべてが至近距離にあるのです」(Cinematographer Agnès Godard, AFC, discusses her work on "Let the Sunshine In", by Claire Denis - Afcinema。日本語での紹介記事がIndieTokyoに掲載されている)。
控えめに言っても単純にストーリーテリングにおいて相当有用であるはずの社会的役割という背景をフレームの外に追いやってまで、この映画はなにを"至近距離"でとらえるのか。それはイザベルという女性の恋愛であり、イザベルという人物を通した恋愛という状態にある女性であることは疑いようがない。正直に言って、"至近距離"でとらえられた恋愛状態にあるイザベルの姿はどこか異様であるとさえ、言えるだろう。なぜこの女性はここまで恋愛"だけ"に生きることができるのか。もしこの映画が、画家として活躍する"かたわら"恋愛を求める女性を描いていたなら、あるいは子供が巣立ち母親としての役割を"終えた後で"第二の青春としての恋愛を探す女性を描いていたなら、おそらくこの日本においてさえ一般的なマーケティングの対象になり得た作品だろうと思う。しかし『レット・ザ・サンシャイン・イン』は巧みにそこをすり抜ける。いや、果敢にもそれらすべてを徹底的に拒絶する。
働く女であることも、母親であることも、妻であることもマーケティングのターゲットととして絡めとられてしまうこの社会において、もっと言えば恋愛という行為こそがもっともあからさまな消費の対象として商品化される社会において、ただの女として誰かを愛そうとすることはここまで過酷であり、ただの女として誰かを愛そうとする者を描くことはここまで困難なのか、とこの映画を見ていてハッとさせられる。『レット・ザ・サンシャイン・イン』が描くのは、女性の誰もが経験したが過ぎ去ってしまった時間でも、やがて迎えるかもしれない時間でも、いままさにそれと似たものを生きているかもしれない時間でもない。そうした社会的要請によって生じる期間のすべてをかなぐり捨てて、ただ「女であることを恐れない」ことによって初めて生きることが可能な時間が、この映画では描かれている。
東京藝術大学馬車道校舎での上映後のトークで五所純子は、取りようによっては数ヶ月とも数年間とも取れるこの作品内の時間の奇妙な流れについて触れていた。もともとロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』の映画化という企画から出発したというこの作品の独特な各シークエンス間のつなぎを、きれいなモザイクをなすように各断片を脳内で再配置していくことは容易ではない。だがひとたびそれに成功するなら、イザベルという女性は、単なる恋愛中毒者としてでも、ただひたすらひとりでいることを恐れているだけの女性としてでもなく、理解されるだろう。
この映画の最後で、ジェラール・ドパルデュー演じる占い師は、彼女の数ヶ月とも数年間とも取れる時間の中で出会った男たちの顔を素描していく。彼の言葉とともに、それまで"至近距離"で、背景を欠いて、時間の感覚を欠いた均質な照明の下で見てきたイザベルの恋愛の時間が、モザイクをなすように適切な距離感の中へ解きほぐされていくように感じる。彼の語りの最中に、この映画で初めて、シークエンスの途中で光の加減が変わる。窓から光が差し込む。イザベルの顔が光に照らされる。
ただそれだけのことで、「まだなにも終わっていないのだから、オープンでいなさい」という月並みなアドバイスがまるで金言であるかのように響く。ただそれだけのことで、彼女の欲望は私たち全員の自由に関わっているのだと直観する。そして、自らの内なる美しき陽光を探せ、という教えが、ゼロ距離射撃のように私の胸を撃つ。