『ジュラシック・ワールド/炎の王国』フアン・アントニオ・バヨナ
千浦僚
[ cinema ]
スピルバーグの影から脱したほうが豊かになる映画文化圏も存在する。『ジュラシック・ワールド』(2015)を観たときに、もうこれはかなり「ジュラシック・パーク」シリーズ(93年の1作目、97年の二作目『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』、01年の『ジュラシック・パークⅢ』)から離れた小気味よさだと感じた。まあ、そもそもジョー・ジョンストンが監督した『ジュラシック・パークⅢ』が、バックパック型ロケット噴射装置のレトロSFヒーローもの『ロケッティア』や炭鉱町の高校生が模型ロケットコンテストに夢を仮託する『遠い空の向こうに』など、特異な飛行体という主題を持つジョンストンの熱をはらむ翼竜フューチャーの活劇志向で脱スピルバーグなジュラシックシリーズの萌芽であった。
『ジュラシック・ワールド』で良かったのは、前年2014年の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』でブレイクしたクリス・プラットがそれこそ恐竜以上に現在絶滅している類の、明朗ユーモラスしかしやるときゃやるぜ!的な、懐かしいタイプのアメリカンナイスガイヒーローを演じており、それがブライス・ダラス・ハワード演じるお堅い恐竜遊園地管理者女性とツンデレバトルしたり共闘したりというところ(一度はデートしたものの短パンを履いてきたクリプラにブライス嬢が激怒してつきあわなかったという逸話が語られる)。ブライス嬢の甥ふたりが恐竜脱走パニックと管理体制崩壊に巻き込まれてゆくが、甥っ子くんたちは、クリプラがライフルを背負ってバイクに乗り、意志の疎通ができるヴェロキラプトル四頭を従えて脱走凶暴遺伝子改造恐竜を追って夜のジャングルをぶっとばすのを見て、ウヒャー、おばさんの彼氏チョーやべー!となってブライス嬢まんざらでもない、みたいな傑作シーン。私はこれ観て、うわージュラシック世界、完全に知能指数下がった、でもすんげーカッコよくて楽しーわ!、と思いました(もう誰もハワード・ホークス『赤ちゃん教育』の恐竜復元模型のことなど思い出すまい......)。そういう、あの場面が切り拓いた方向性をこの製作陣もつかんでいるようで、新作『~炎の王国』はあの感覚の延長線上にあって、クリプラが新参キャラの非アウトドアタイプのナード青年(コンピューター系担当)を、俺は恐竜と一緒にバイクでジャングルを走るぜ、つってびびらせる場面もあったり。
前作の『ジュラシック・ワールド』は単に「パーク」よりも規模の大きいパークとしての「ワールド」という名づけ、ほとんどそういう商標、というほどのものだったが、この『ジュラシック・ワールド/炎の王国』では、「ワールド」はマジにワールドになる。放擲された中米の島イスラ・ヌブラルは人間の手の入らぬ野性の恐竜王国となっているが火山が活動しはじめ恐竜たちは絶滅の危機。さあそれがどうなるか、何者がどうするかというところから始まる。救出、移送の計画が出る。神なきノアの方舟。そこで欠かせないのが島を知悉し、管理システムにアクセスできるブライス嬢と、ダイナソーラングラー(恐竜つかい)のクリプラ。もーベタもベタのハリウッド映画スターシステム。しかしここまで来て、つまり、むちゃくちゃアメリカ人な男女が恐竜王国の最期を見届け、その一部を救う王女と騎士であるという人間側の軸をここまで強く立てることで、恐竜スゲーCGスゲーに拮抗する劇をつくり、トータルな映画として面白くなった。恐竜スゲーの度合いは下がってないし。
そう、唐突だが私が最近頭にくるのが"ざんねんないきもの"とかいう児童書、動物知識本とそれが流行してるらしいこと。中身はそうでもないらしいが、やはり動物の性質や特徴、その意外さなんかを"ざんねん"という切り口で言うというのは相当ひどい。自覚のない人間中心主義。別に動物好きでもなんでもない豆知識好きのトラッシュ。別に私は動物愛護的ではない。大藪春彦や服部文祥、千松信也の狩猟の話が好きで、様々な動物との戦いかたを真剣に考察する空手家大山倍達の『大山カラテもし戦わば』が座右の書。でも動物を殺したりぶったたいたりする彼らには動物に対する敬意がある。そのパワー、スピード、牙、爪をすごいと思ってる。平手で向かい合えば十中八九やられるのは人間。恐竜だって同じ。圧倒的に他者であるものとのヤルかヤラレルかの緊張感、それと同時にそういう存在に魅了され畏敬の念を抱いてしまうこと(魅了、の表現に関しては新参キャラのメガネっ娘恐竜獣医ジア(ダニエラ・ピネダ)が良い仕事をしてる)。あと、それらをそもそも感じられず、虚栄や金や武装で接する奴は死ぬ、というか最大限無残に死ね!ということ(まあこれは対象が映画とか文学とか音楽とかでも一緒かもしれない)(本作の終盤の見せ場は悪役たちの食べられ放題ショー。痛快!)。『ジュラシック・ワールド/炎の王国』の主題はもうほんとそれ。そこをちゃんと押さえたうえでの、クリプラとヴェロキラプトルのあの美しい対峙シーンの反復。あれは結構泣く。もうクリプラ的にも決めポーズになってていろんなところで披露してるみたいだが。
前作の監督コリン・トレボロウから、おそらく過去作での、こどもを描く手腕を評価されてバトンを受けた新監督フアン・アントニオ・バヨナもそれに応えて、メイジーという女の子が出るシーンはどれも力が入っていておもしろい。謎を秘めたその女の子の存在が重要で、あっと驚くラストを導くことになる。
観終えたとき、もはやあなたもジュラシック・ワールドにいるから、魂には恐竜を飼え。