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July 29, 2018

『グレイ・ガーデンズ』アルバート&デヴィッド・メイズルス、エレン・ホド、マフィー・メイヤー
『グレイ・ガーデンズ ふたりのイディ』アルバート&デヴィッド・メイズルス、イアン・マーキウィッツ
隈元博樹

[ cinema ]

 青々と緑の生い茂る一軒家の居間をカメラが捉えると、ほどなくして2階の椅子にもたれた老母の姿がフレームに収まる。今にも爛れそうなセルライトを両腕に蓄えた肌身の彼女は、「ウィスカーズは穴の中だよ」と粗雑に空けられた壁穴を見やり、姿の見えない娘に猫のウィスカーズは穴の中に逃げ込んだのだと語りかける。母曰く、この穴は野生のアライグマによる仕業であるらしく、また娘曰く、不当な理由でこの古びた屋敷から追い出そうとしたイーストハンプトンの役人たちさえも、彼らにとっての「侵入者」だったと口を揃える。やがてこの親子が衛生局からの立ち退きを余儀なくされたものの、親類であるジャクリーン・ケネディ大統領夫人の尽力によって屋敷での生活が取り戻されたのだと、私たちは当時の新聞記事を通じてまざまざと知ることになる。
 しかし、この屋敷で暮らす老母の「ビッグ・イディ」は、そのほとんどが寝室のベッドの上に横たわっているか、別室やベランダの椅子に座っているかのどちらかでしかない。自身の誕生日会のために一歩ずつ階段を降りてリビングへ向かう様子や、娘の歌声への苛立ちに思わず立ち上がる光景は認められるものの、所在の大半はベッドか椅子の上に限定されているのだ。時折屋敷を訪れるジェリー青年とは恋人同然のような関係を持ち、彼はベッドに横たわったビッグ・イディのそばで健気に応答するのみ。もちろんそのことは、ひとえに彼女が高齢であるという事実にすぎないのかもしれない。しかし、ベッドや椅子から立ち上がるための始動や空間を移動する様子がほぼ皆無である以上、それを撮る側のメイズルス兄弟と撮られる側のビッグ・イディとのあいだには、ある一定の距離(ズームイン・アウトは多用されるものの)がおのずと担保され、私たちは埋まることのない距離を通して彼女の衣食住を見つめ続けることになるのだ。
 ビッグ・イディがきわめて限られた居住空間のもとで日常を営む存在であるいっぽう、娘の「リトル・イディ」はカメラの前に自ら現れることで、ビッグ・イディよりも広範囲を移動できる人物だ。彼女は屋敷やその周辺のあらゆる場所へと赴き、自らの境遇やイーストハンプトンへ舞い戻ったいきさつ、母親のビッグ・イディや屋敷に対する不満を募らせつつ、メイズルス兄弟の前を縦横無尽に動き回っていく。薄毛を気にした頭にはスカーフやフードを纏い、原色を基調としたファッショナブルな姿で現れる彼女は、何の前触れもなく歌い始め、ビッグ・イディの身の回りの世話や彼女からの容赦なき叱責に応戦することも厭わない。また、好意を持ったメイズルス兄弟へ近づくこともあれば、大好きな近くの海へ繰り出すためにカメラから遠くへ離れることをも選択する。つまり被写体の前でカメラとマイクを構え続けるメイズルス兄弟にとって、被写体との距離を保つ対象がビッグ・イディならば、被写体との距離を曖昧にさせる対象がリトル・イディなのだ。たしかにこの母娘によって繰り広げられる痴話喧嘩の云々を辿っていけば、このふたりの仲が底知れず険悪であることは誰しもが感じざるにはいられないだろう。しかし『グレイ・ガーデンズ』がもたらすイディ親子の関係性はそれだけにとどまらず、カメラとの距離を一定に保持する対象と、絶えずその距離を曖昧にさせる対象とのぶつかり合いではないだろうかとさえ思う。たとえばフレデリック・ワイズマンやシネマ・ヴェリテに端を発した「観察者的撮影行為」への言及は、今回の上映にあたって執筆された藤井仁子氏の解説に詳しいが、『グレイ・ガーデンズ』がドキュメンタリー映画の潮流と一線を画している所以は、おそらく撮影者と被写体とのあいだに生まれる距離を保持するもの、または詰められていくものとして、あらかじめ制作者自身が許容していたからなのではないかと思うのだ。
 そのいっぽうで、『グレイ・ガーデンズ』から約30年を経て発表された『グレイ・ガーデンズ ふたりのイディ』(以下、『ふたりのイディ』)は、これまでの二者間の距離に大きな変化をもたらしたフィルムだ。たとえば『グレイ・ガーデンズ』のビッグ・イディはリトル・イディの歌に不快感しか示さなかったものの、『ふたりのイディ』では仲睦まじく「Around the world in 80 days」をデュエットで歌っている。また、メイズルス兄弟と彼女たちとの距離で言えば、海辺や教会へ向かうリトル・イディの一部始終を捉え続けるように、どこか彼女たちの行動を追随するようなカメラの動きも見逃せない。さらに屋敷内で起こったボヤ騒ぎの場面では、録音のアルバートさえもその場に機材を置き、リトル・イディとカメラの前に姿を現しては火消しに奔走しようとする場面も印象深い。本作はイアン・マーキウィッツの手によって『グレイ・ガーデンズ』の未使用テイクをもとに編集されたものだが、『ふたりのイディ』に収録された素材の一部は、『グレイ・ガーデンズ』によって生じていたはずの二者間の距離を埋めるべく、より緊密な状況を孕んでいることが如実にうかがえるだろう。
 このようにイディ親子やメイズルス兄弟、そして彼らを捉えたふたつの作品には、それぞれにAやBとしての存在を認めるかぎり、さまざまな隔たりが生じることになる。ただし、その隔たりの中で緊密さを得るためには、単に一方へ近づけば良いものではなく、冒頭のアライグマやイーストハンプトンの役人のように、半ば強引に侵入すれば良いことでもない。時には両者のあいだに生じた距離を一定に保つことも必要であり、また時には相手が近づいて来るのを待つための寛容さも必要なのだろう。そして『ふたりのイディ』のような緊密さを目の当たりにしたとき、この「グレイ・ガーデンズ」を取り巻く対象への試みは、けっして映画の中の事物に留まるだけではなく、スクリーンの外に広がる私と自分以外の誰かとの距離さえも、より緊密なものにするための方法論となりうるのかもしれない。

7月29日(日)、渋谷TOEI シアター②にて一日限定で上映予定