『ものかたりのまえとあと』展 青柳菜摘/清原惟/三野新/村社祐太朗
三浦翔
[ art , cinema ]
「ものかたりのまえとあと」というそのままコンセプトを言い表すタイトルからどうしても考えてしまうのは物語(story)ないし歴史(history)以後、つまり「歴史の終焉」という冷戦以後の世界について話題になった議論のことである。何故そんなことを思うのかというと、そこで議論された政治的な問題だけに焦点があるのではなく、むしろ冷戦体制以後にインターネットの民間利用が進み、並行してデジタルテクノロジーが世界中の生活世界を変えていった時代では、やはり「歴史の終焉」ではないにしても「物語」や「歴史」の「ナラティブ」は変わらざるを得なかったという気がするからだ。今回の展覧会は映像作品による「ものかたり」をメインとしている。映像とデジタル化の問題は、映像そのもののデジタル化(例えば映画におけるフィルムからデジタルへというメディウムの変化)に議論が集中して来たように思うが、映像によって捉えられる現在の世界のデジタル化による変化、特に携帯電話やSNS等によって生じた大きな「言葉のあり方の変化」など、それらの変化をも含んだ映像の「ナラティブ」に関する新たな議論はまだまだされていない。
そのような大きな問題をそのままこの展覧会に重ねて見るのは無理があるし作品を見失ってしまう怖さもあるのだが、それでもここに集まった4人のアーティストが90年代という「歴史の終焉」以後の時代に幼少期を過ごし、青春時代をデジタルテクノロジーによる大きな変化を無意識だとしても体感しながら過ごしてきた世代だということは重要である。4人の作家それぞれが全く違った発明を行っていることが意味するのは、ここに未だ発見されていない「ナラティブ」の可能性がまだまだ眠っていることを示していると考えても良いのではないか。この展覧会をそのような議論のひとつの場とすることは十分有益にも思える。以下別々に見ていくことで、そのための布石を置いておくことにする。
三野新の『アフターフィルム』は眼の作品であるが、この眼はもはやわたしたちを見つめ返すものではない。砂浜にクローズアップしたデジタル映像は、砂とデジタル画素の粒子が混合するようにも見える。その死んだ粒子である砂が眼の周りに付着し、眼というものが死の時間と生の時間、あるいは人間と人間でないものの間で彷徨うかのようだ。それは果たして「わたし」なのか。ベケットの『フィルム』を想起させる言葉が続くが、その言葉は映った眼の持ち主とは切り離されている。三野の『アフターフィルム』から感じるのは、かつて『フィルム』が前提としていた視線という問題ではなく、眼がむしろ皮膚のようなものであり、その表面に映り込むものが問題となるのである。その眼は必ずしも視線の先にあるものを見てはいない。しかしそれでも何かを見ている。
村社祐太朗の『砂漠1』『砂漠2』は、それぞれ役者の発語を定点のワンカットで捉えた作品である。村社は徹底的にメディウムスペシフィティを追求する作家である。彼の演劇が「言葉そのもの」の次元に迫ろうとしていることに観客が付き合う緊張感があるのと比べると、この映像作品では、映像という平面にテクストと役者の身体が等しく写り込む。テクストが(色付きの字幕として)映されてしまい、ミスや言い詰まった部分なのか意図的な言葉の断片化なのか役者の身体的な機微に余計に注意が行く。必ずしも失敗と映るのではなく、それも何かしらメディウムの揺らぎとして経験する可能性はないのかという試みとして稀有なもののように思えた。
青柳菜摘の『家の友のための暦物語』は短編の朗読作品の集まりであるが、朗読する語り手は最後を除いて画面に映らず、観客は朗読の声と朗読を行っている場の環境音とともに黒画面の字幕を読みながら風景を想像させられる作りになっている。最後に映る朗読する人のロングショットまで見ていくと、『孵化日記』を見たときに感じた地層のようにして風景の中に眠るマテリアルな歴史感覚を拾いあげる経験と通底するものを感じた。というのも本作で選ばれたロケ地は、線路の上の橋、団地、公園など大文字の歴史性のある場所ではないのだが、工業化によって生じた均質な空間に言葉が孤独に響くことで特有の身体の浮遊感が漂っている。そのような感覚からは、そこに無数にひしめいては消えた小さな物語を想起せずにはいられない。
清原惟の『網目をとおる すんでいる』は武蔵美の同期の友人が集まることによって生まれた物語から、スタッフも彼女たちだけで完結させられたことで自由な映像のあり方が探求されている。カメラのプロではないイラストレーターの中島あかねが撮影を担当したことで、いわゆる映画的なコンティニュイティーとは違う編集ポイントとナラティブの可能性を清原が新たに発見しているのではないだろうか。それは清原が『暁の石』や『ひとつのバガテル』の頃から持っている、いわば「フラヌール(=遊歩者)」のテーマの新たな展開として本作に現れているだろう。映画には「フラヌール」小説のように次々と自由に歩き回り世界の記憶を味わうことは難しいのかもしれないと思ってきたが、『網目をとおる すんでいる』では坂藤加菜とよだまりえのダイアローグが、ストーリーを前に進めることにはほぼ関心がなく無限に脱線しながら、この世界の光と音の記憶を味わっていく。彼女たちは、道のないところに道を見つけ出し、そこに流れる風や光をそれとして味わいながら、もう一つの世界である「要塞」に辿り着き、そこから様々な記憶を引き出してしまうのだ。毎日遊びにいく場所なのか、反復する編集によって世界がどんどん広がっていく。中島の手持ちカメラはそのような反復する編集を許し、坂藤とよだが歩きながら出会ったものたちへとカメラの視線をずらすことを可能にしているかのようだ。この作品が「フラヌール」を扱いながらも特異なのは、単に映画として歩き回る物語を語るのではなく、歩きながら世界を感じる映像の可能性を探求していることにある。それは必ずしも劇映画の作り方からは生まれない、彼女たちの親密な関係性があってこその「ナラティブ」の可能性であるだろう。