« previous | メイン | next »

October 30, 2018

『教誨師』佐向大
田中竜輔

[ cinema ]

 6人の死刑囚との対話を請け負った大杉漣演じる教誨師・保は、ことあるごとに「えっ、私ですか?」と、目の前に座る死刑囚に聞き返す。マネキンのように押し黙った刑務官たちが壁際に同席してはいるものの、どう考えてもこの人良さげな牧師にかけられた言葉だと判断するほかはない囚人たちの些細な問いに対して、彼はいちいち「えっ」と驚いて、律儀に「私ですか?」と尋ねる。もちろんこのやり取りは、彼がまだほんの半年前にこの役職に就いたばかりの新米であり、囚人たちとの対話にまだ慣れていないことを示すという、ごくささやかな演出に過ぎないのかもしれない。
NOBODY ISSUE47」に掲載した佐向大監督のインタヴューによれば、『教誨師』の多くの場面はカットバックを想定した2カメによるワンテイク、「ひとつの流れをカメラを止めずに撮る」というスタイルで撮影されたものであるという(ときには大杉漣の意向で「テストもリハもやらず、準備ができたらいきなりカメラを回」した場面もあったらしい)。もちろん例外的な場面もあるだろうが、本作における対話場面の多くは、対話を生み出した実時間がまず存在し、それを2台のカメラで捉えた映像を組み合わせることで再現された映像だということである。実時間に基づいたワンテイクゆえの緊張感に漲った、充実した画面の連鎖。それに酔いしれているだけでも、劇映画としては十分だったかもしれない。しかしそこにおいて繰り返される教誨師の「えっ、私ですか?」という言葉は、明白な対面関係に楔を打ち込むようなかたちで、私たちを動揺させる。相対した二人の人物の視線の交わりを示す切り返しという技法に、エクスキューズを挟み込む。そこにいる二人の人間とは、本当に「この二人の人間」なのか? と。
 この保という教誨師が自身の仕事への集中を欠いているような素振りはいささかもない。あらゆる問いかけにまるで反応をしない男であれ、他者の話をまるで聞こうとせず自分への共感をひたすらに求める女であれ、自身の正義を肯定するために他者の論理の欠陥を指摘し続ける若者であれ、いずれの囚人に対してもこの男は言葉を尽くして彼らに関わろうとする。しかし、あるいは、だからこそ、そんな彼によって呟かれる「えっ、私ですか」という言葉は、何のてらいもなく字義通りの意味を伴ってその部屋に響く。目の前に座る囚人たちが自分に語りかけているに違いないはずの言葉について、それははたして真の意味で「保」という自分個人に向けられたものであるのだろうかと、この男はそのたびに都度確認しているのだ。すなわち彼はその乾いた語調とは裏腹に、全存在を賭けて、ここでのショット/切り返しショットの正当性について、「えっ、私ですか」という言葉を発することで疑義を挟んでいるのである。
『教誨師』における囚人たちの罪状は、詳細こそ明確にされていないものの、ストーカー殺人、集団リンチ、衝動殺人等々、私たちが日常茶飯事のように見聞きしているものも、「17人の社会的弱者を計画的に殺した」という、この社会が数年前に直面したばかりの現実の事件を明白に参照したものもある。囚人たちはそれぞれに自身の罪を認めているわけだが、しかしはたしてそれらは本当に彼/彼女たち固有の罪なのだろうか。それらの罪は、彼らではない別の誰かが犯したものであったとしても、つまりこの映画を見ている「あなた」や「私」が犯したものであったとしても、まったくおかしくないものだったのではないか。その問いは彼らに教えを説く教誨師にさえ例外ではない。かつて自分が犯し得た罪を兄が代わりに被ったエピソードにまざまざと示されているように、この男もまた私たちと同様に、この6人の囚人たちによって代替された、潜在的な罪人のひとりにほかならない。
 神なるものの言葉を自身の声を依代に伝達する仕事を担う聖職者である以上、保という教誨師は、そもそもが誰であっても構わない代替としての存在なのであって、その本性や特性は、彼の相対する囚人たちのそれとまったく変わらない。彼はたまたまイエスの代わりに言葉を伝えるという仕事を担い、囚人たちはたまたま誰かの代わりに罪を背負っているだけだ。それまで面会室では向かって机の左側に座っていたこの教誨師が、その反対側に座ることを促されたとある場面で、私たちにもたらされた言いようのない不安とは、まさしくそのような交換可能性に基づく。あるいは冒頭における、囚人の顔と教誨師の顔のイメージで紡がれる対話が、ある瞬間で何の予告もなくまったく別の囚人にその顔がつなぎ合わされてしまう場面に顕著なように、この映画におけるショット/切り返しショットとは、教誨師と囚人という一方向的な関係性を強固に形づくるものではまるでない。それはむしろ形作られる関係の、その「不確かさ」をこそ強調するために必要とされた技法なのである。
 
 そんなことについて考えながらこの映画における大杉漣の「えっ、私ですか」という台詞を耳にし続けているうちに、私はいつしかフレデリック・ワイズマンの映画のことを想起させられていた。たんに『教誨師』が「ドキュメンタリー」っぽく見えたと言いたいわけではないし、この映画がスタンダードのフレームサイズで撮影されているからというわけでもない(無論、そうした部分もまったく関わっていないとは言えないが)。そうではなく、私は『教誨師』という劇映画に、ワイズマンの「ドキュメンタリー映画」に垣間見られる、現実そっくりだが決定的にそうではない瞬間、ごく乱暴に表現して「フィクション」なるものが顕現する瞬間に近い何かを強く感じていたのだった。
 よく知られている話で、上映時間の短い『高校』などの初期作に顕著なことだが、ワイズマンの映画には一台のカメラではどう考えても撮影不可能なはずな時間の持続を強調した編集のなされた場面(たとえば、実際には実時間における二人の人物の対話を捉えたものではなく、別の時間で撮影した素材を流用した「偽の切り返しショット」で構築されたような場面)がある。つまりワイズマンの「ドキュメンタリー映画」において、「現実っぽく」「生っぽく」見えるあらゆる時間は、じつはきわめて緻密で作為的な構築物である可能性を潜在させており、私たちはそれを見ている間、つねに目の前の映像に欺かれているという可能性と隣り合わせにある。「撮影では、おもしろいと思えるものや、その場所で行われていることを捉えようとしているだけだ。いかなる「意味」も、編集の結果において生まれる」(『全貌フレデリック・ワイズマン』P174)と、ワイズマンは自作における「編集」の重要性を強調している。ゆえにワイズマン映画を見ることとは、「現実」を担保につくられた「現実っぽい映像」を確認する程度の経験であるはずがない。
 ワイズマン映画とは、この世界の表面からセルロイドやデジタル信号で掠め取った「素材」の一つひとつを綿密に吟味した上で、別の場所にまったき「もうひとつの現実」を創造するものなのであって、それを見る私たちに課せられているのはその「もうひとつの現実」を、ひとまずそれとしてありのままに引き受けるということである。しかしそんな「もうひとつの現実」が、撮影の対象としての「現実」以上のものである、などといった思い上がった理解を為すこともまた、ワイズマンの映画とは無縁のものだ。「一人の人間すべての側面を観察することなどできない」(同掲書P174)とこの監督は十全に理解しているからこそ、たとえば「偽の切り返しショット」といった技法を用いることで逆説的に、ただひとつの決定的な「現実」を映し出すショットなど決して存在しないという純然たる事実を、自身の映画に刻み込んでいるのである。ゆえにたとえひとつのショットがどれほどに魅力的でショッキングで生々しく赤裸々なものであろうとも、それらはつねに何かの「代替」として示され得るもの、たんなる「ひとつの現実」に過ぎないのだと、私たちは眼前に映し出されるすべてを受け止めねばならない。
 改めて述べておきたい。『教誨師』における大杉漣の「えっ、私ですか」とは、まさしくワイズマン映画における「偽の切り返しショット」のようなものを、別のかたちで一本の劇映画に導入する機能を有した、現実の一面性という硬直から私たちを解放する装置だ。それは大杉漣によって演じられた教誨師の台詞であるとともに、彼の目の前に座る囚人たちの内なる声でもあり、そしてこの映画を見る「私」たちの立場を疑わせるための言葉でもある。なぜ「私」はこの映画を見るという立場にいるのか、なぜ「私」ではない「誰か」が罪を犯さねばならなかったのか、そして、どうしてその「誰か」は「私」ではないのか?
 終盤、あるひとりの囚人が頭から「黒い袋」を被せられる場面がある。日本に限られた話ではなく、「死刑」を指し示す記号としてよく知られるこの「黒い袋」は、実のところいったい何を為すものなのか。それは、もはや人命を奪うというかたち以外では拭いきれない(とされる)罪を背負った(背負わされた)者を、他のいかなる人間とも対面関係(ショット/切り返しショットを為しうる関係)に置かせないための処置、すなわちその者と他なる者が交換可能であることを示す可能性を、ただただ一方的に排除するための「壁」なのではないか。「私」たちはもはや「この囚人」とその位置を入れ替えることは許されない。その黒い袋を被らされた瞬間に「この囚人」が、甲高い声で「あれ?」という教誨師の「えっ」によく似た言葉をこそ発しながらも、そこに「私ですか?」と言葉を紡ぐことができなかったのは、もはや「私」たちと「この囚人」とのあいだにショット/切り返しショットの関係を有することが、決定的に奪われてしまったからなのだ。
 私たちは決してショット/切り返しショットを手放すようなことがあってはならない。たとえそれが決定的な真実を生み出す技法であるとは限らないばかりか、ときに醜悪な虚構を生み出してしまうものであるのだとしても。どこかの「誰か」に黒い袋を一方的に被せることで、一面的な「答え」を手に入れたかのような思考停止に陥ってはならない。『教誨師』はそのような視座において、「ショット/切り返しショット」を手放さないという勇気を私たちに分け与えてくれる映画だ。

有楽町スバル座、池袋シネマ・ロサ他、全国ロードショー中