『ひかりの歌』杉田協士
三浦翔
[ cinema ]
ランニングとは、全力ではないが息が上がるくらいのスピードで長い間走り続ける運動のことである。杉田協士の『ひかりの歌』をまなざす経験は、ランニングのように決して速くはない運動の持続に153分という時間をかけて徐々に魅了されていくことではないか。
4首の短歌を原作にした4つの短編には、それぞれに特別な決定的ショットというものがあるというよりも、むしろどのショットに映る時間もそれぞれが特別な時間であるような感じがする。仮に日常的な所作を映すスタイルから、例えばホン・サンス映画のようだと形容したくなる人もいるかもしれないが、ホン・サンス映画のベテランの役者たちによる劇的で強いショットと比べるならば、『ひかりの歌』は素人も加わった出演者チームが相手の言ったことをゆっくりと受け止めてキャッチボールを交わすことで、時間をかけて確かな感情を伝えていく優しいショットの連鎖で成り立っていると言える。それゆえに物語の如何に関わらず、主人公に限らないそれぞれの登場人物たちが特別で、確かな感情の在り処を伝えてくる。
4つの短編は、そのようにしてすれ違ったり出会ったりする人々の星座を拡げていくのである。ただし、この映画が同じ世界に生きる人々の4つの異なる物語を描く理由はそれだけではない。これから見ることになる人のために物語の細部を伝えることは控えて映画の運動にのみ注目するが、1話が絵を描く静かな運動から始まるとするならば、2話ではランニングの運動が徐々に感情を高め、3話では旅の運動である船や電車から眺める風景の時間がそこにあり、4話でまた同じ場所に戻ってきた物語は、ドライブ中に交わされる会話が重要な局面を担い、そしてふたりの運動がゆっくりと落ち着くまでが物語られるからである。つまるところ、この映画を見ること自体が1話から4話に掛けて、ひとつの大きく緩やかな運動に身を任せるようなものであると思えるのである。
ではあらためて、この緩やかな運動とは何であろうか。それぞれの運動は、物語のなかの歌によって感情を与えられていることを忘れてはならないだろう。そうした4つの感情的な運動は、アクション映画のような誰かを追いかけるものでも逃げるものでもなく、どこでもない場所へ向かう風景のなかで、そこにいる人の感情を掬い取る優しさなのである。ただし、その優しさは互いの感情と向き合う厳しさと表裏一体なのであり、まさにその向き合い方こそがこの映画のそれぞれの物語の感動的な点である。簡単には受け止めきれない感情もあるだろう。そんなときは、ちょっとばかりランニングを逸脱し、息を切らして走れなくなるまで運動を続けたらいい。そのときには、ランニングの緩やかな運動のなかでふと視界が開けてくるときのように、優しくこの世界と向き合う準備が出来ているかもしれない。『ひかりの歌』の緩やかな運動を通して、きっとわたしたちは世界の感情を掬い取る強さを取り戻すためのランニングをしているのである。