『体操しようよ』菊地健雄
結城秀勇
[ cinema ]
レトロだけれどカラフルな調度に囲まれた、ガラス張りの温室が表に張りだすどこかモダンな一軒家。そこから海の見える坂道を下り、毎朝片桐はいりが掃除をしている神社がある三叉路を通り過ぎて行けば、駅に出る。おそらく駅の反対側に海があり、それを見渡す岬の突端に公園があり、海と山との途中のどこかに商店街があり、三叉路をいつもと違う方向に曲がれば、のぞみ(和久井映見)の営む喫茶店がある。映画を見ているとなんとなく、そんな空間配置の街を思い浮かべる。
老若男女がラジオ体操に集うコミュニティがあり(というかこの街の人はほとんど全員ラジオ体操しているんじゃないのかとさえ思える)、その後皆で同じ喫茶店で朝食をとるような、どこかユートピア的なこじんまりとした街。道太郎(草刈正雄)が利用する駅では「館山駅」という看板が映り込むけれど、ここは現実の館山というよりはどこか架空の館山(やたらと"欧風"建て売り住宅の並ぶ地方の海沿いの住宅地のどこかには、こんな街もあるのかもしれない)であるだろうし、 この作品のイメージソースのひとつだと語られる ウェス・アンダーソン『ザ・ロイヤルテネンバウムス』におけるニューヨークのようなものであるかもしれない。
だが、夜の海が黒いというよりも不穏に青い光を放つとき、あるいは、慣れない手つきで道太郎が干す白いシーツが強い風にあおられるとき、この街はただのファンタジーな箱庭ではないのだ、と気づかされる。ここは外部から隔絶された社会ではない。海から吹きつける風は、街の中を通り過ぎていく。どこかからやってくる老いや死も、街の中を通り過ぎていく(菊地健雄作品における葬式率の高さ!)。そしてどこかから流れ着いた者たちが行き場をなくして足を止めるのも、海を見下ろす岬の突端である。
突然個人的な話をすれば、ラジオ体操にいい思い出なんてない。夏休みに朝早く起こされて、ラジオの指示に従って(しかも国営ラジオの!)同じ動きを強制させられるなんて、どんな全体主義だよ、と思っていた。でも『体操しようよ』を見る限り、ラジオ体操ってそんなものじゃない。
怪我をした体操会会長(きたろう)の代理をつとめるのぞみを補佐して、道太郎が皆により「正確な」ラジオ体操を行うことを強いるとき、映画の冒頭付近、タイトルバックでの体操には存在したはずの一糸乱れぬ(ように見える)動きが、声をそろえた「あーたーらしーいーあーさがきった」という歌声が、崩壊する。皆は口をそろえて、これは私たちのしたいラジオ体操ではないと語る。そして体操会という集団も崩壊する。だが、彼らのそろった動きが、中央から発信される電波に合わせることによって、あるモデルに忠実に従うことによって生まれるのではないのだとしたら、いったいどこからどこから生まれるのだろう?
その答えはすでに道太郎がラジオ体操と出会う場面にあったのかもしれない。40年近い無遅刻無欠席の勤務の最終日、送別会の終わった後に夜の公園でひとり缶ビールを飲む道太郎。夜が明けた公園で、のぞみはベンチで眠りこける道太郎に「おはようございます」と声をかけ、そのベンチにラジカセを置く。彼とラジオ体操の出会いは、夜が朝になってしまうことによって生じる。
昨日までのいつも通りがいつも通りでなくなってしまった後にも、「新しい朝」は当たり前にやってくる。それはなにげない日常と呼ぶにはあまりにも過酷で、たとえば人はいつか死ぬというのと同じような当たり前である。その当たり前の中で、海と陸が出会う公園で、夜と朝が出会う時間に、人と人が出会う。ひとりがひとりに「体操しようよ」と呼びかける。すべてはそこから始まる。どれだけ人数が多くなろうとも、あらゆる関係の基礎は「しようよ」「しませんか」という呼びかけの中にある。彼らは決して、画面の外から届けられる理念や主義や中心や全体に動きを合わせるわけではない。ただ目の前にいる人の、時には声にならないかもしれない「しようよ」「しませんか」に答えているだけなのだ。
前述した、まるでサザエさんみたいに何十年も同じ人たちが同じ役割を演じ続けているようでありながら、同時に西部劇のようにどこかから流れ着いた者たちを受け入れる場所でもあり、そして誰かが去っていく場所でもあるこの街は、絶え間ない一対一の呼びかけによって細部がつなぎ合わされることによってできている。だから、映画の最後に皆で行うラジオ体操は、まったく同じ動きをしているはずの人々を、まるで他の誰でもないその人でなければできない特殊な動作でもしているかのように、ひとりひとりを切り取っていくのだ。
以上のようなことは映画を見終わった後で考えたことだが、たぶん見ている途中の各瞬間に、観客は同じようなことをなにげない細部の中にすでに見て取っているはずなのだ。そうでなければ、道太郎と娘の弓子(木村文乃)が初めて一緒にラジオ体操に行く朝、帽子とジャージにインしたポロシャツ、裾の広がったトップスにゆるくテーパードしたジャージ、というどこか楕円形なシルエットを共有するふたりが、ただこちらに背を向けて並んで歩くというなんでもないショットで、あんなに涙が零れる理由がない。
『体操しようよ』菊地健雄(監督)和田清人(脚本)インタビュー