『象は静かに座っている』フー・ボー@第19回東京フィルメックス
三浦翔
[ cinema ]
若者の閉じた孤独な世界を被写界深度の浅い映像として表現することには、どれだけの可能性があるのか。『象は静かに眠っている』は、そのような問題提起的な作品だったろう。物語は、自分をバカにした番長的なクラスメイトを突き落としたことで逃亡するブーや、学校の先生と恋愛関係になったことがSNSで拡散されたリンなど、ひとつの街で生きる4・5の主となる人物の人生が少しずつ重なりながら展開して行く。ある種の群像劇である。それぞれのシーンでは中心となる登場人物にのみ焦点が当てられていて、手持ちカメラが彼らを追いかけ意識的に距離とフレームをコントロールすることで、たとえ会話をしている相手ですらもほとんどのシーンでは焦点から外されていることにこの映画の最大の特徴がある。
『象は静かに眠っている』の場合、僕はこうした演出に違和感がある。たとえば、これが彼らの疎外された状況と孤独な情動を浮かび上がらせていると言っていいのだろうか。確かに疎外された状況は表現されているだろう。しかし観客にとってそれは状況の確認にすぎない。観客にとっても会話をしている相手の顔が見えないということは、中心となる登場人物の行動や表情だけを起点にして彼らの物語を受け取るしかないということである。しかし、そのように「効果的に」表現された映画は、相手が本当は言いたかったことやそれに対する別の行動の可能性などを、観客もまた見逃し続けるように強いられた映画ではないだろうか。それゆえに、ドラマという語の伝統的な意味、対立する人物たちの葛藤は、充分に観客へと伝わっていないのではないか。その代わりに4時間もの間、演出として観客をスクリーンに向かわさせたものとは、背景のない画面の中で生きる登場人物たちへの共感でしかないとさえ思える。映画が何を映し何を映さないかを巡る倫理的な営みであるとするならば、この映画はそのことに半ば意識的であったが故に、逆に決定的なものを失ってしまったのである。
思うのは、フィルムとデジタルの時代の感性の違いについてである。一本前に上映されたアミール・ナデリ監督の『期待』との差を考えてみれば、なおのことそれを意識させられる。『期待』は、ほとんど台詞のない映画で、アクションのみが詩的に少年の欲望を表現する。彼のアクションの緊張は、フィルムの表面の全て、つまり彼が生きる空間に張り巡らされていたからだ。あるときまで映画とは、そのようなアクションによって世界や他者と戯れる芸術であったはずだ。そのことに対する意識は、もしかするとデジタル技術を基盤にした感性の変化によって、今失われつつあるのかもしれない。この映画が共感を呼ぶということは、そうした時代の感性と何処かで問題が通底している気がする。どこまで関係あるのか分からないが、何年か前までは背景をボカしたポートレートが巷のブログや写真教本で、意味もなくフォトジェニックなテクニックとしてことさら紹介されていた記憶がある。最近ではモノを撮ることが多いインスタの流行によって変わったようにも感じるので、こうした一般的なレベルでの、技術と感性の変化について充分に考える準備がまだ僕には出来ていない。ただ、このような映像の技術と感性の変化が、今の問題を映画化する上で重要なのかもしれないことを『象は静かに座っている』は告げている気がしたのである。デジタル技術と共にわたしたちの世界も閉じてしまったのだろうかと。結果として、いわゆる「孤独」という紋切り型をそのまま表現することしか出来なかったと思うのだが。それ故に、むしろわたしたちが探すべき方途は、この焦点深度の浅さから抜け出すことであり、もう一度他者たちと戯れるアクションの空間を作り出すことではないだろうか。確かに記憶に残ったこのフィルムを、僕はフー・ボー監督に敬意を込めて、そのように受け取っていこうと思う。
第19回東京フィルメックスにて上映