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December 8, 2018

『バルバラ セーヌの黒いバラ』マチュー・アマルリック
結城秀勇

[ cinema ]

 彼女は鼻歌交じりで爪弾いていたピアノをやめて、オープンリールテープの録音を開始する。ピアノは再び奏で始められ、彼女の歌がそこに重なる。電話機を取り上げながら誰かに電話をかけた彼女は、窓辺に近づきながら月蝕について話をし......、そして彼女がテレビの前に移動したあたりではたと気づく。これって劇中劇の撮影シーンだったよな、と。
 彼女が気軽な調子の歌をやめるのは「カメラが回ります」という合図のせいであったにもかかわらず、それ以前のシーンでジャンヌ・バリバールが演じているのはバルバラという歌手そのものではなく彼女を演じることになった女優ブリジットだと示されていたにもかかわらず、窓の外の夜景はいかにもな書割に過ぎないにもかかわらず、つまりこれは"本物"ではないと何度も念押しされたにもかかわらず、もしそれが劇中劇の撮影であればまたぐはずのないカットを軽々と飛び越えて、彼女が歌い舞うように移動するのをバカみたいに見つめていた。それがバルバラであるかブリジットであるかバリバール本人なのかなどどうでもよく、というかそんなこと考えすらもしなかったので、彼女は彼女と呼ぶほかなかった。バルバラの伝記を書いた作家ジャック・トゥルニエ(ピエール・ミション)がカフェでバルバラを評して言う言葉、「彼女は素手で土を掘り、後ろに放り投げ、盲目のまま......」云々。映画の最初の撮影シーンで盲目だったのは、私だった。
 この作品を、バルバラの伝記映画を製作する監督イヴ(マチュー・アマルリック)と女優ブリジットのバックステージものと呼ぶには、盛り込まれた内容があまりにも多様すぎる。現代のパリの映画製作の様子、入れ子構造というにはその縮尺がおかしな映画内映画パート、そしてなんの断りもなく紛れ込んでくるバルバラ本人のドキュメンタリー映画のフッテージの映像と音声。画面の見た目も、デジタルで撮られた16:9(?アメリカンヴィスタ?)の現代シーンに、16mmフィルムっぽい質感を与えられたヨーロピアンヴィスタの映画内映画(しかし16mmでヨーロピアンヴィスタで四隅がフィルムの画面の丸みを帯びることなんてまずあるはずないのに!)、そしてまぎれもない16mmフィルム撮影のスタンダードのフッテージと様々だ。しかし多分こうした分類に完全に振り分けうるほど厳密に画面の質感や画郭が撮られる対象と一対一に対応しているわけでもなく、またそれを逐一どういう条件で変化するのかなどと追う気にもなれない。この映画にはそんなことよりももっと興味をそそるものがある。
 だから、内容が多様だ、などと書くのは間違いかもしれなくて、この映画には内容がひとつしかない。それはタイトル通り、「バルバラ」である。だがその名は、モニック・アンドレ・セールという本名をもつ往年の歌手をのみ指すわけではないし、ジャンヌ・バリバールの身体を持つブリジットという女優によって演じられた役名のことでもない。ブリジットの演技がバルバラ本人によって残された音声の、甲高く早口でまくしたてる口調を完璧にコピーするときも、またそこから遠く離れてあの囁くような声色になるときも、それは結局バルバラなのだ。
 ジャンヌ・バリバールという女優の顔に刻まれた皺を眺めるときも、晩年のバルバラのステージメイクである過度な白塗りメイクを眺めるときも、それが美しいとか醜いとかいう判断がまったく浮かんでこない。だから「盲目で」あったのは最初の劇中劇撮影シーンだけではなく、この映画の間中ずっと、だったのかもしれない。映画の最後の方で、バルバラは彼女の技術スタッフ(?)に、「あなたが前にしてくれた、音の亡霊の話をもう一度して」と頼む。キョトンとするスタッフだが、バルバラが言っているのが周波数を視覚化したスペクトルのことだと気づく。この映画の画面上で生起するものはすべて、音声をある形式にそって視覚化したもの、音の亡霊たちに過ぎないのかもしれない。そうした意味でこの映画もまたひとつの「ア・ゴースト・ストーリー」かもしれない。
 だからこの映画について言えるのは結局たったひとつのことで、それは撮影中の映画の中にひとりの観衆として紛れ込み、それが映画の撮影なのか実際のコンサートなのかわからなくなってしまったかのようにイヴが口にする一言と同じだ。
 「16歳のとき、あなたが耳元で囁いて、僕の世界は変わった」。
 もちろん私は16歳でもなければ、「あなた」はバルバラ=モニック・アンドレ・セールでもないのだが。「あなた」の声は、あの、低いようでいて高いようでもある、輪郭がどこか不明瞭な、宙に放たれたそばから消えていくような、"彼女"の声だ。

映画「バルバラ セーヌの黒いバラ」公式サイト

  • 『さすらいの女神たち』マチュー・アマルリック