『ア・ゴースト・ストーリー』デヴィッド・ロウリー
奥平詩野
[ cinema ]
本作が愛の可能性について肯定し、それ故に感動を呼び起こすのだと捉える事は、死が愛する人との無慈悲な別れを意味し、それによる喪失の絶対性から逃れたいと希望する私達にとって、得たいと望む感想だと思う。しかし、死者が纏ったシーツと、引き延ばされたり縮められたりする時間感覚や離人的世界体験は、逆に、死後の執着と喪失に晒される続ける鬱々とした絶望を私達に見せ、愛が失われない事の感動よりもむしろその事の空虚さや途方のなさや悲嘆を感じさせ、愛の可能性より、想像以上に呆気なく身近な愛の限界について語っているように思える。
シーツとは境界であり、幽霊を被り物のシーツで表現する事が映画にとって滑稽なものに見えるのは、シーツが霊体の存在の象徴として、あまりにも愚直で強烈に機能するからである。シーツ姿の幽霊は、彼が絶対的に死んでいる事を意味し、彼の人生は生者の世界でこれ以上発展しない事や生者とは触れ合えない事を私達に終始了解させる。一人残され、かつて共有したベッドで恋人の喪失に耐える悲痛なパートナーを撫でる手もシーツ越しでしかなく、そのシーツが妨害する故に恋人は死者の愛撫を知覚する事はない。死後も恋人を思い続けるという形での愛の可能性への期待は残酷に破り捨てられているのだ。その悲哀と絶望を背負っているかのように死者のシーツは猫背で、涙を流しているかのように両目がくり抜かれている。生の中で過ぎ去っていく生きた恋人への執着だけで、どこにも行けずにどこの生活にも属せずに佇み続けるしかない死者の、突如として疎外され、茫然として静謐な悲しみは、確かな苦しみとしてシーツに染み込んでいる。
自分のいる場所で自分の生を失ったシーツの死者にとっての時間とは一体何だったのだろうか。対象を無批判的に、しかし細部に至るまで何一つ取りこぼす事無く延々と凝視する時間や、完全な無意識による断絶が、彼に何も知覚させないために消滅した時間が、徐々に多くを占めるようになる彼の時間は、いずれにせよ、彼が世界ともはや何のつながりも持っていない故に、人の人生においての仕事を失った時間だったように感じられる。死者の、無限に無意味に続き、また繰り返される時間の空虚さに、私達は、存在し続ける事、執着し続ける事への嫌気を感じ、ただその嫌気のために自分自身を捨て去りたい気分にならないだろうか。凝視されるパーティーでの男の演説は、私達にそういった種類の諦観を察知させる。人々が何かをし、他の人を喜ばせ、時代に耐えうる感動を生み出し、種の保存を願い......それは宇宙が原初状態に収束するまで続く。そしてその後はまた同じことが繰り返されるかも知れない。それと同じような成仏の経過を辿る死者が成仏の唯一の方法としてとうとう手に入れた恋人の残したメモは、彼にとって愛のための行為でなく、彼がそこに書いてあるものに興味があったとも思えない。もはやそのメモは恋人が去った時から彼を家に縛るだけのものであったのであり、向かいの窓の別の死者が、待つという行為に縛られながら誰を待っているか忘れてしまったように、死者として長い時間が経過した今、内容よりも、それを見る行為そのものが大事だったのではないだろうか。あれほど秘密にされていたメモの内容が観客に明かされなかった時、私はこのような、死者の失った「行為の内容」を考えざるを得ない。「行為の内容」を失ったという事は、彼がはじめに抱いていたかも知れない、愛という内容も失っていたのだ。
これらの、コミュニケーションの不可能性と疎外、途方も無い時間感覚は、死んでしまったら愛情関係も終わりである、それが一時的で条件的なものに過ぎないという、メッセージを伝えるが、しかしそれで私達が絶望したり虚無を感じて悲嘆したりするのは、逆説的に、本作が登場人物達や私達のそうであって欲しく無いという精神的な努力をも映し取っているからでは無いだろうか。実際、本作では、死者が精神的動揺をポルターガイストで表現することはあれ、それ以外でその絶望や悲痛は激しい情動として現れることはなく、静かに炙り出されている。カップルの何の変哲もないはずの日々が、ただ何の理由も無く大切な日々のように淡々と、しかし生活全体によって初めて浸透した慈しみを感じさせる音楽と共に描かれているし、外国人家族の侵入により見た目を変えた我が家に対して感じられる喪失感は、全ての家具を含む生活空間が保有する、そこに思い出があるという事そのものの失い難さを想起させる。恋人が、引っ越しの度にメモを古い家に隠しておきたいと思うように、喪失が私達の心を痛めるのに抵抗しようとする努力そのものが、私達にその努力の敗北と諦めを感じさせる以前の前提として描かれていて、その描写が決して冷淡なものでなく、批判するべきものでもなく、乗り越えられるべきものであると描かれている訳ではなく、当然のものとして受け入れられているがために、私達はそのシーツの死者の絶望や哀愁を、大胆なフィクションで想像の産物でしか無い幽霊ものの映画の中で、決して観念的なものでなく、自らの心を痛め、悩ませ、不安する、喪失への抵抗の空しさや愛の限界といったものにまつわる完璧な悲劇として、受け止めることができるのでは無いだろうか。
映画『A GHOST STORY / ア・ゴースト・ストーリー』公式サイト