『BOY』タイカ・ワイティティ
隈元博樹
[ cinema ]
マーベル・コミックから映画化された「マイティ・ソー」シリーズの中でも、タイカ・ワイティティが監督した3作目の『マイティ・ソー バトルロイヤル』は、過去の2作(『マイティ・ソー』『マイティ・ソー ダーク・ワールド』)とはやや異なる様相を呈している。それは荻野洋一さんが「Real Sound映画部」(「"ユニバース"過剰時代における、『マイティ・ソー バトルロイヤル』の役割」) で指摘しているように、祖国アスガルドの為政者たちを巡る攻防とその功罪が本シリーズに通底した趣向であるいっぽう、こと『バトルロイヤル』に至ってはそれとは無関係なくだらなさの表出した映画だと言うべきか。当然ながらそのくだらなさとは、前作から続く雷神ソー(クリス・ヘムズワース)と義弟のロキ(トム・ヒドルストン)との「インフィニティ・ストーン」を巡る戦いや騙し合いによるものでもなければ、アスガルドの王であるオーディーン(アンソニー・ホプキンス)の手を逃れた姉のヘラ(ケイト・ブランシェット)が巻き起こす肉弾戦によるものでもない。また、辺境の惑星「サカール」に収監されたソーとハルク(マーク・ラファロ)との運命的な再会は、どこかMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)シリーズへの収束を予見してしまうし、彼らによって結成された「リベンジャーズ」がヘラとの最終決戦を迎えるクライマックスも、マーベル印に裏付けられたお約束事のような気がしないでもない。
ただ、そんな状況下で表出する『バトルロイヤル』のくだらなさの要因は、サカールを支配するグランドマスターことジェフ・ゴールドブラムの異様な出で立ちにある。金色の衣裳を身に纏い、目にはアイシャドウ。唇の下と爪先に水色のマニキュアを施し、"Grandmaster Jam Session"の破裂したような電子音を背景に脱力した身体の揺らぎは、即興性を帯びた冗長な語りとともにその道化師ぶりを増幅させてもいるだろう。一刻も早くサカールを脱出し、アスガルドへの帰還を望むソーとは相容れるはずもなく、とは言え「こんなところによくもソーは流れ着いてしまったなあ......」とか色々と思う節はあるけれど、アスガルドやMCUが導く闘争の歴史とは一線を画したくだらなさのありようが、ある種の胡散臭さをも漂わせているかのようだ。
さて、そんなことを思っていた矢先、このたび「傑作?珍作?大珍作!! コメディ映画文化祭」で上映される『BOY』を観ていると、この映画の父親に扮したタイカ・ワイティティが、何だか『バトルロイヤル』のグランドマスターに見えてくるではないか。学校の授業で自身の家族について発表する息子のボーイ(ジェームズ・ロールストン)曰く、長らく家を留守にしている父親のアラメインは、彫刻の名人であるばかりか、時には海底探検家となり、また時にはラグビーチームのキャプテンを務めたことのある人物だと言う。試合中に片手で倒した人数は伝説とも謳われており、次に自宅へ戻った暁にはボーイの敬愛するマイケル・ジャクソンにも会わせてくれるらしい(これが一番胡散臭い!)。ボーイが発表を終えると、すぐさま後ろの席のクラスメイトからは「ウソだ、父親は泥棒で刑務所だろ。だって俺の親父と同じ房じゃないか」と揶揄されるものの、「もう逃げたよ、スプーンで穴を掘ってね」とてんで相手にしない強心臓ぶり。信じて疑う余地のない父親への憧憬は、当の本人が祖母の留守中に現れてからも一向に変わることはない。それがマイケル・ジャクソンではなく、盗人にしか見えない二人の仲間を引き連れてきたとしても......。
しかし、そうした胡散臭さの萌芽は、アラメインやボーイだけにとどまらない。ボーイの実弟であるロッキーは自分が超能力者だと信じており、川辺で木々を集めて暮らす巨漢の住人や戦場ごっこに耽るアラメインに対し、伸ばした腕の指先を歪めてはその力を試そうとする。偶然にも目の前の大人たちが転んでしまうことはあるけれど、その威力が通用しなければ、「僕の力が強すぎたんだ」と自己弁護に陥る始末。また、ボーイによれば女友だちが父の手伝いで頼まれた「庭仕事」は、見るからにマリファナの栽培だし、アラメインたちの「宝探し」は逮捕前に隠した金を探し出すための穴掘りにすぎない。たしかに「庭仕事」も「宝探し」も事実だけれど、こうした些細なギャップは、振り向くことのない好きな女子に唱えるボーイの"Look at me"のささやきや、あるはずのない超能力をロッキーが試し続けることと同じ働きにある。つまり彼らの小さな声や指先による所作とは、ひとつの事実を自らの理想や憧憬へと近づけるための行為であり、たとえ既存の事実とは異なった結果が彼らにもたらされたとしても、『BOY』という映画はそれらの働きと引き換えに、愛すべき胡散臭さを手に入れることになるのだ。
しかし、理想や憧憬を抱く彼らの行為は、それほど長くは続かない。ボーイの善き話し相手であるヤギのリーフがアラメインの車に轢き殺され、彼によって「どうせバカ犬だ」と言い放たれたとき、ボーイはその間違いに対して異を唱えようとはしないのだ。そのことでこれまでに漂っていたはずの胡散臭さは瞬く間にかき消され、「リーフはバカ犬」という間違った事実だけがボーイたちの手元に残ることとなる。そして、どんなに悪事を働き、息子たちをことごとく裏切ろうとも、アラメインがボーイやロッキーの父親であることに変わりはなく、また、ロッキーを産んだがゆえに亡くなった母の不在という事実も、けっして彼らの中で揺らぐことはない。しかし、そのことを想い起こすようにして芽生えた父親への反抗や母親との惜別は、二人の少年たちのまっすぐなまなざしによって支えられ、胡散臭さ以上のエモーショナルな瞬間を画面いっぱいに漲らせる。だからこそ母の墓前に佇むアラメインが二人の息子と対峙し、行ったはずの日本の感想をあえてロッキーに尋ねられ、そのことを受けてボーイが微笑み返すラストシーンとは、父親を前にした彼らが、その胡散臭さと、変わることのない事実とをともに受け入れたファーストシーンでもあったのではないだろうか。そして二人の姿こそ、彼らが意味を知ることのなかったマオリ語の「有望」そのものであり、私もアラメインと同じく、まるで彼らの有望な瞳に見つめ返されているような気がした。