『僕の高校、海に沈む』ダッシュ・ショウ
結城秀勇
[ cinema ]
ある集団の権力関係について一番敏感なのは、集団に入って来たてのルーキーでも、その中である程度の地位を築いたベテランでもなくて、いつだって2年生=ソフォモアなのかもしれない。この作品の主人公ダッシュ(ジェイソン・シュワルツマン)は2年生として通学初日のバスの中で、親友アサーフ(レジー・ワッツ)に向かって、今日からおれたちは2年生なのだからもっと後ろの方に座ろう、と呼びかける。通学バスの座席は、車内前方から後ろに向かって、フレッシュマン、ソフォモア、ジュニア、シニアという階級構造をなす。もっとわかりやすいのはこの高校の建築そのもので、一階から四階までが順に各学年に割り振られ、その上にはこの映画で起こる出来事の潜在的な原因である、新築の講堂が据えられている。
スクールカースト下位に位置する主人公が、新学年の到来とともに成り上がりを図る、だが階級関係そのものである学校は地震によって"まるごと"海に沈む。シーンによってタッチの変わるアニメーションという手法によって、『僕の高校、海に沈む』は学園コメディとディザスタームービーとがいびつな形で混じり合った独特のジャンルを形成する。だがこの混合の仕方自体が、映画にいいようのない奇妙さをもたらしている。
新入生には無視され、上級生にはバカにされ、生徒会からは見下され、親友には裏切られ(たと思い込み)、とそんな学園生活ならば、いっそ学校ごとなくなってしまえばいいと願うアウトサイダーたちの妄想ならば容易に理解できる。だがダッシュの望みは、この階級関係の母体である学校の消滅ではなく、あくまで階級関係を登りつめることにあるのであって、そういう意味でこの作品は現実とデフォルメされた妄想の混合体とすら呼ぶことができない。震度2程度で崖が崩れて学校がまるごと海に落下する、というリアリティを欠いた設定はアニメーションであるという免罪符によって実現するというよりも、このショボショボの絵(失礼!)ならそうなるよなあという変な現実性を帯びる。こんなヘロヘロの線で描かれた崖ならそら崩れるわ、「断層」って書いてあるし、と。
浸水してくる水、発生する火災、混乱から暴徒化する同級生たち、カルト集団化する最上級生、とさまざまなトラブルをかいくぐってダッシュたちはサヴァイヴしなければならないのだが、中でも個人的に一番怖いなと思ったのは、海水とともに校内に侵入してくる人食いザメたちだ。もう明らかに描写に力が入ってない、手のひらサイズのキモカワ人食いザメたちは、それでもちゃんと、ムカつく"人気者"の女の子に群がって食いつくし、水中に投げ込まれたトランキライザーを食べて眠る。もはやなんの隠喩とか考えるのもバカバカしくなるような悪夢じみた空々しさにふと背筋が寒くなる。
沈みゆく校舎からの脱出経路は、前述したように校内の階級構造を登りつめることと合致する。しかし、余震のせいか波のせいか、沈みゆく校舎が横転し、登りつめなければいけない方向性が90度横にズレるとき、ダッシュのサヴァイヴァルの目的はそれまでの校内カースト制覇の野望と同じものなのか、あるいはまったく別のなにかになるのか。その辺はラストをご覧になった各自が確認してもらえればと思うが、学園コメディとディザスタームービーとがなんとも微妙に混じり合いそうで混じり合わないまま重なり合うこの作品の目的が、かつて船乗りであった夫とともに世界中の海を股にかけたという経歴を持つ学食のおばちゃん(スーザン・サランドン)が、自らに「ランチ・レディ・ロレイン」という名前をつける目的と同じなのは間違いないだろう。つまり人から与えられたものではない名前を名乗ることで「自由」になるため、この映画と彼女は壮大な物語を持つ自己の上に、卑小なスケールの集団である学校を重ね合わせるのだ。