『スローモーション、ストップモーション』栗原みえ
隈元博樹
[ cinema ]
この映画を一言で言い表すならば、東南アジアを訪れた作家自身の個人的な放浪旅の一途にすぎないのかもしれないし、そこで暮らす数年来の友人たちを記録したホームビデオだと説明できるのかもしれない。しかし、こうした一見閉塞的な要素を孕みそうな題材や内容であるにもかかわらず、『スローモーション、ストップモーション』に風通しの良さを覚えるのは、変わりゆくものや変わることに対する栗原みえの素直な反応によって、無秩序で軽やかさに満ちた時間がそこに絶えず流れ続けているからなのだろう。
そうした変化のひとつは、栗原が使用する撮影機器のバリエーションにある。2014年当初に携えていた8ミリフィルムは、SONYのミラーレス一眼に取って代わり、中盤のミャンマー滞在から後半にかけてはGoProまがいの中国製アクションカムが撮影に使用されている。やがてこれらの機器を前にしたタイやミャンマーの人々による「カメラ、カメラ」といった連呼は、彼らとの親密なひとときを引き出すばかりか、撮影していたはずのカメラをいともたやすく彼らへ手渡すことさえ可能にする。たしかにそのことは、物理的な手軽さや経済的な側面を踏まえた選択だったのかもしれない。しかし、その有用性を物語る以上に、たとえ撮られたものがフォーカスや構図の定まらない映像や写真だとしても、それがこの映画を流れる彼らのまばゆい時間であるかぎり、こうした小さな撮影機器の変遷は、彼らとの時間を撮るために必要な変化であったことがわかるだろう。
また、その時間とは、2014年から約5年のあいだ、以前から映画製作に使用していた8ミリカメラを小型のデジタルカメラに持ち替え、時に目まぐるしく、また時にカメラを固定することで切り取られていく時間のことであり、異国の言語や音が飛び交うなか、今にも消え入りそうな声色で発せられる栗原のボイスオーバーを伴った時間のことでもある。そうしたいくつもの時間たちは、けっしてフレームの中を経過していくだけの代物ではなく、まるで道化師のように戯れる栗原の撮影行為や彼女自身の声へと導かれるようにして、スクリーンを見つめる私たちの時間と折り重なっていく。撮り方や語り口に明瞭なルールや秩序は存在しない。撮る=戯れるという行為そのものが彼女によって先鋭化されたとき、その光景の目撃者となる私たちは、流れうる他愛なき時間の断片を通して、栗原の友人たちが営む生活の一端を自ずと引き受けることとなるのだ。
タイのチェンマイで姉と水商売を営むアンをはじめ、片田舎で暮らす彼女の家族や近所で戯れる子どもたち、スコータイの中学校の学食で毎日200杯のタイヌードルを売るピードゥアンと「番長」こと彼女の娘、バンコクから富裕層の彼氏をゲットしにパタヤを訪れるピンちゃんなど、栗原は彼らと再会するたびに各地を彷徨し、その様子を事細かにカメラに収めては衣食住をともにする。だからほんの数年のできごとだとしても、そのあいだにアンはいつの間にか恋人のピーターと別れ、幼かった息子のベンは快活に言葉を発するようになっている。以前はあんなにおしゃべりだった娘のジェニーも、思春期を迎えたせいか自分の意志をあまり表へ出さなくなっているし、チェンマイに移住したピードゥアン親子はレストランで働き始め、ピンちゃんはもう何人目かの彼氏にお金を貢がせている。こうして過ぎゆく時間の中で、たしかな変化を受け止めていくうちに、この映画と出会う前から、なぜか彼らのことを知っていたかのような錯覚に囚われてしまう。だから自然とアンの状況やベンとジェニーの成長、番長の恋愛、ピンちゃんと今の彼氏の動向といった数多のイメージを喚起することで、彼らをめぐる時間は次第にフレームの外へと引き延ばされていく。彼らの無秩序で軽やかな時間とは、彼女が向けたカメラを通してだけでなく、きっとそれがカメラに捉えられなかったとしても、ゆっくりと、また時に静止しながらも続いてゆくのだろう。