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February 3, 2019

『ヒューマン・フロー 大地漂流』アイ・ウェイウェイ
中村修七

[ cinema ]

 美術家のアイ・ウェイウェイが監督を務めた『ヒューマン・フロー 大地漂流』のような映画を見ると、居心地の悪い気持ちになる。なぜなら、一種の「社会正義」を表した映画に対して、少なからぬ苛立ちを覚えるとともに、批判的な態度をとらざるをえないからだ。実のところ、アイ・ウェイウェイに対する筆者の見方は少し複雑だ。彼に対しては、時々の情勢に応じて器用に立ち回る「政治屋」のようなところがあるのではないかとの疑念を拭いきれない。
『ヒューマン・フロー』は、まるで著名人やセレブリティが難民キャンプを訪ねるテレビ番組のような作りをしている。ここでは、アイ・ウェイウェイが難民キャンプを訪れたのだということを示すショットがところどころで挿入される。そのようなショットが意味するのは、この人物は難民問題に関心を持っており実際に難民キャンプを訪れているということだ。しかし、難民キャンプを訪れたアイ・ウェイウェイは別にたいしたことをしていない。彼がしているのは、ぞんざいに片手で持ったスマートフォンで難民たちを撮影したり、難民たちと一緒に踊ったり、難民と短い会話を交わしたりする程度のことだ。『ヒューマン・フロー』の撮影は23カ国・40カ所の難民キャンプでおこなわれたのだというが、おそらく撮影クルーは大半の場所を一度きりしか訪れていない。そのような撮影の仕方では、被写体となる難民の人たちとその場限りの表面的な関係しか築くことができなかったはずだ。
 美術史家のジョルジュ・ディディ=ユベルマンは『ヒューマン・フロー』についての論考を書いている(Georges Didi-Huberman:"Hauteurs de vue", "From a high vantage point" 筆者はフランス語の原文を読めないので英訳版を参照した)。この論考は、ニーチェやドゥルーズやアレントを引用しながら議論を進める視野の広さを持つと同時に、ショットを詳細に分析する、模範的で見事なものだ。ここで彼は何度も繰り返し『ヒューマン・フロー』でのドローンを用いた空撮の俯瞰ショットに言及している。ドローンによって上空から見下ろされた難民の姿は、小さな対象物と化してしまう。ドローンによる俯瞰ショットに触れ、ディディ=ユベルマンは、『ヒューマン・フロー』が被写体を非人間化する映像を用いながらもヒューマニスティックな言説を語っているとの矛盾を指摘する。
『ヒューマン・フロー』における典型的なシーン展開は次のようなものだ。まず、上空からドローンで難民キャンプを撮ったショットから始まる。次に、地上レベルでキャンプ内が撮られたショットが続く。その後、難民や専門家のインタビューが置かれる。それらの合間には、アイ・ウェイウェイが難民キャンプを訪れた際の映像が挿入される。別の難民キャンプのシーンに移れば、同じようなシーン展開が繰り返される。『ヒューマン・フロー』は、固有名を持った人物としてではなく、難民一般という仕方で被写体を扱う。『ヒューマン・フロー』の基調をなすのは、廣瀬純が否定的に定義づけた「ロング・ショット」だといえるだろう(廣瀬純「プラトン/レヴィナス/ゴダール/小津 切り返しショットの系譜学」『シネマの大義』)。
 優れたドキュメンタリー映画はその題材にはどのような方法がふさわしいのかを作り手が試行錯誤しながら時間をかけて作り出されてきたのではなかったかと思う。かつて小川紳介は三里塚や古屋敷村に長く住み込んで映画を製作した。また、土本典昭は水俣病の患者や医師たちと長期にわたる関係を築きながら映画を製作した。『ベトナムから遠く離れて』のゴダールは、フランスにいながらベトナム戦争についての映画に参加することをめぐる自らの葛藤そのものを映像化した。近年の難民問題を取り上げ、ジャンフランコ・ロージは、地中海の島で長期にわたる撮影をしながら『海は燃えている』を製作した。あるいは、もしも、たとえばペドロ・コスタやワン・ビンや濱口竜介や小森はるかのような人が難民を取り上げたドキュメンタリー映画を撮るならば、ごく僅かな人物を被写体として創意に満ちた作品を製作するだろう。
 『ヒューマン・フロー』には、どのように難民を取り上げるかをめぐる思考と創意と葛藤が欠けている。この映画には、なんとしてもこれを撮らなければならないと被写体に迫る大胆さもなければ、こんな撮影をしては被写体に対して申し訳が立たないからと自制する節度もない。
 いうまでもなく、難民問題という社会性のある題材を取り上げたからといって、優れた作品になることが約束されるわけではない。かつてヌーヴェルヴァーグの批評家たちがおこなった、題材か演出かという議論は今も有効だろう。ドキュメンタリーであろうがフィクションであろうが、重要なのは、どのような題材を取り上げるかではなく、被写体をどのように撮り、どのように見せるかに関わる演出だ。

シアター・イメージフォーラムにて上映中