《ペーター・ネストラー監督特集in京都》2018年12月5日@京都・出町座
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《ペーター・ネストラー監督特集in京都》、最後に掲載させていただくトークは、2018年12月5日に京都・出町座での『良き隣人の変節』上映後に行われたトークです。『良き隣人の変節』は第二次世界大戦中、15歳でポーランド東部ソビブル絶滅収容所に送られたトーマス・"トイヴィ"・ブラットが、年月を経て再び収容所跡地、逃亡した際のその道のりを訪れます。
いまだヨーロッパで大きな問題としてあるナチ協力の問題に関して、ペーター・ネストラー監督の言葉が重く響きます。
渋谷哲也 ネストラー監督は、今回、広島国際映画祭に参加するため11月22日に日本に来られて、初めての日本、アジア滞在をされています。広島、東京、そして京都と移動されて、今日が日本最後の夜です。明日の朝、スウェーデンのストックホルムにお帰りになります。
最後のトークとなりますので、どうぞよろしくお願いいたします。まず、今日みなさんがご覧になった『良き隣人の変節』についてネストラー監督にお話していただき、その後、Q&Aを行います。
ペーター・ネストラー まずはこの映画が、広島、東京、京都と3つの場所で上映できたことをとても嬉しく思っています。この映画はおわかりのように、商業公開するのが難しいため、みてもらう機会が大変少ない作品です。
もうひとつ、この映画には広くヨーロッパ中にある大きな問題が関わっています。対ナチ協力の問題です。ヨーロッパの国ではどこでも、ユダヤ人はドイツに引き渡されました。例えばフランスにもナチ時代にはユダヤ人の収容所があり、そこからアウシュヴィッツ等へ移送され殺害されたという歴史があります。ヨーロッパの中で、ユダヤ人の連行を阻止した唯一の国がブルガリアです。人々は線路の上に横たわったり、教会の牧師たちが人々に、我々は移送を止めねばならないと呼びかけたのです。
この映画の中には3つの異なる素材が組み合わされています。それら3つがそれぞれに枠づけ合っていて、私の考えでは、絶妙な筋を作り出しています。感情の流れに任せてみるのでなく、我々を思考へと誘います。時間軸や出来事がバラバラに展開し、そこにストックホルムの臨床心理家ルードヴィヒ・イグラの話も加わります。そして物事を理性的に理解するのです。それは『SHOREショア』(1985)の方法とは違うやり方です。
私は友人からトイヴィが手に持っていたあの本を手渡されました。友人はその本を読んで、私ならこれを映画化できる、と言いました。トイヴィは毎年ポーランドを訪問しており、訪問がいつまで続けられるかわからないながらも、ポーランドでこの問題と取り組み続けていました。誤った史実を記載していた記念碑を撤去させるなど、友人であるポーランド人たちの助けを得て、彼の史観が真実であることを明らかにしたのです。
トイヴィはアメリカで商売を営み、よい暮らしをしていました。そして節約したお金を、老後の生活費にする以外すべて自身の活動に投入しました。つまり、絶えず隠ぺいされ埋もれてきたホロコーストの真実を掘り起こし、それを白日に晒す活動です。
冬の場面の撮影は私個人で行いました。SONYの小型カメラは操作が簡単でセミプロ的な機材ですが、それでもこのトイヴィという男性の持っている力強さを伝えることに成功していて、映画の物語にとって必要なものは撮れていると思います。翌年の春までにドイツのTV局の出資が確約されました。映画を製作・監督している友人が企画に乗ってくれたのです。そしてカメラマンも雇うことができました。カメラマンのライナー・コマースは、旧知の友人で何度も仕事をしているので、信用して撮影を任せることができました。このことはトイヴィさんの動きをずっと追いかけるにはどうしても必要でした。彼はたいへんな説得力を持って話をします。もちろん彼が実際に逃亡した道のりなので当然です。普通のドキュメンタリーだったら、いまの場面はうまく撮れなかったのでもう一度ということが起こりえますが、彼は決して同じ場面をやり直してはくれなかったでしょう。彼はそうした繰り返しを許容する人物ではなかったので、すべてをワンテイクで撮影し、映画に取り入れることになりました。
トイヴィの持つ力がまさに映画の推進力になっています。そんな彼もときどき感極まることがありました。例えば、母親と別れた絶滅収容所の駅のホームでのミルクの話を語るエピソードがありましたが、あの場面の彼は限界まで感情が高ぶっています。それでも自制して、最後まで語り通してくれます。彼は映画でこの話を皆に伝える意義があることを理解していたのです。
この映画の問いかけは、一体誰が助けてくれるのか、誰が裏切るのか、そのことを知ることができないということです。臨床心理家のルードヴィヒ・イグラが言っていたように、そのことをあらかじめ知ることはできない。自分がその状況に置かれてみないとわからないということです。
映画の中で、本当に贈り物のように撮れた場面がありました。それはポーランドの道で二股に分かれた道が示されるところです。とんでもない状況を明示する忘れられない場面となりました。一方の道を行くと死に、もう一方の道に行くと生きられるというものです。
この作品には、私たちに力を与えてくれる場面もいくつかあります。絶望的な映画ではありますが、例えば生徒たちにトイヴィが話しかける場面があり、ある女子生徒をカメラがずっと捉える場面からは力をもらいました。それ以外に、楽しい場面もあります。収容所で若いポルトガル人女性たちと出会う場面です。そしてまた、雪道でポーランドの農民ふたりと突然ばったり会って、「ああ、あのときの人か」と声を掛け合う場面です。
この映画にとってもうひとつの贈り物となったのは、トイヴィを匿ってくれたパルチザン一家の息子で、彼と同じ世代の農夫です。トイヴィは後に自分もパルチザンに加わったと言っています。彼が匿われた家の納屋がまだ現存し、そしてその中にわらが積み上がっています。その光景を見ると突然過去に連れ戻されたかのようでした。もちろん彼らは歳を取ってしまっているわけですが。
この映画は現在の時点から始まって、過去へと戻ってゆきます。しかしその際に、昔の記録映像、例えば虐殺された人々の映像などはまったく使っていません。
もちろん、地面から拾った骨のかけらの場面は、言葉がなくとも強烈に伝わるものがあります。トイヴィのスモーカーぶりのわかる手の上に乗った骨です。それを春の草原から掘り出してきます。あの場面では彼は自発的に動いてみせてくれました。我々はそこで実際に起こったことを距離感をもって観察します。その前の冬にも我々はあの場所に行きました。そのときも彼が足元にあるものを示してくれたのです。
歴史的資料は写真を用いるのが通例ですが、その代わりに2枚の絵画を取り入れました。それは若い男性が、収容所近くの木によじ登って見たことを描いたものです。見つかれば命の危険があったので、たぶんそこでは簡単にスケッチをして、家で彩色したのだろうと思います。それが非常に興味深いのは、出来事を芸術へと翻訳する行為によって、人々を硬直させてしまうような恐ろしい暴力性が失われることです。
質問1 ソビブルについてはクロード・ランズマン監督も『ソビブル、1943年10月14日午後4時』(2001)という作品を作っています。この作品はポーランド人がナチスに協力した側面を描いているため、ポーランドで議論を呼ぶ内容になっているとよく紹介されています。『良き隣人の変節』の中でも、トイヴィに協力してくれた方も描かれている一方で、ナチスに協力したポーランド人のエピソードも出てきます。実際にポーランド内で、この作品の反応はどうだったのでしょうか。
ペーター・ネストラー この映画は2002年に完成して、その1、2年後にワルシャワのユダヤ映画祭に呼ばれて上映されました。その当時というのは、現在とは状況が違っていました。いまでは過去のこうした問題がすべて隠蔽されようとしています。それまでにイェドバプネの虐殺の真相を明らかにする書籍がいくつも出版されたにも関らず、すべてを糊塗しようとする圧力が働き、ポーランドの対ナチ協力について公言しようとするものは逮捕される危険があります。この問題を解決のつかないまま隠蔽することで、同じ危険な状況が繰り返されかねません。人々がこの問題を掘り下げようとすることが阻まれているのです。
質問2 史実を撮る際に、必ず取材をしてバックグラウンドを調べるというようなことをされるのでしょうか。
ペーター・ネストラー この映画の場合は、トイヴィが代理人の役割を果たしています。実際にポーランドに行って、彼の知っている人に紹介されて関わることになりました。私個人では準備できることはあまりありませんでした。その意味でトイヴィとの共同作業を行ったので、彼は作品の共同作家といえます。
質問3 他の作品の場合はどうでしょうか。
ペーター・ネストラー もちろん他の映画でも、他の人と関わるところでは、撮る前に映画についてじっくりと話し合い、その人に共同作業者として映画に貢献してもらうかたちをとります。ですから、カメラを廻しながら私が質問を重ねるというインタビュー形式をとるのではなく、何を話すかちゃんと意識された状態で語ってもらうのです。
トイヴィは極めて自覚的に行動しますので、適切な例ではないかもしれません。それでも、例えば野原に立って「この辺りは一面血だらけだった」と虐殺を語るところでは、彼は一度画面の外へ歩き去っていきます。カメラはそのまま撮影を続けているのですが、するとトイヴィはまた画面に戻ってきて説明を続けます。こうした場面は素晴らしい。カメラがトイヴィを追いかけて無理やり語らせるようなやり方よりもずっといい場面になったと思います。
同じような場面ですが、春に森の中の十字架を見つけるところ、つまり逃亡中に亡くなった友達の墓場を見つけるところがあります。冬に行ったときは墓が見つからなかったので、春に出かけて撮ることが重要でした。そこで彼は友人を失った話をするのですが、それに続けて「この十字架の下にユダヤ人が埋まっていることを人びとは知らない」と付け加えます。この間合いでぽつりと語ることは、彼の顔にマイクを鼻の前に突きつけて聞きただすよりもずっと真実味や説得力があります。
質問4 臨床科医が話していることが、まるでこの映画の全体を要約しているような、この映画はこうみなさいと言っているような印象を感じました。監督は実際にこのように話してほしいといった指示を出されたのでしょうか。
ペーター・ネストラー 違います。『良き隣人の変節』にはシナリオであるような、基盤になった本があります。それはルードヴィッヒ・イグラが書いた『慈しみと残虐さの間の薄膜』という本です。
実は私の妻が大学で彼の下に学んでいて、特に難民に関わる心理療法に深く取り組んでいました。それで彼の書いた本の存在を教えてくれました。それが私の持っていた大きな疑問について教唆してくれる内容だったからです。すなわち誰が助けの手を差し伸べ、誰が裏切るのか、です。このテーマについて私は過去にも映画を作ってきました。だから私は彼がどんなことを話すかはあらかじめ見当がついていました。ただ彼が普段大学で講義するときのように、早口で話すのではなく、そこにあるものを後世に残すために一言ひとこと言葉を探るように語ってもらいました。
映画には出てきませんが、興味深い話があるのでお話しします。ルードヴィッヒ・イグラは、戦争末期のポーランドで生まれました。すでに戦争は終わっていたと思いますが、両親が彼を農家に預けて匿ってもらったのです。両親はポーランド系ユダヤ人ですが、捕まることなく抵抗運動を行っていました。戦争が終わった後もユダヤ人迫害は続き、家の裏庭や山に隠れていたユダヤ人はその後も追われて殺されたのです。幼いイグラを匿った農婦が「この子は私の子です」と言ってくれたことによって、追っ手は去っていきました。イグラは子供ながら、隣室で一家の人々が大変な重荷を背負ってしまったなどと話しているのを聞き、状況を理解していきました。後に自分の置かれた状況を詳しく知ったとき、彼は心理学の道に進んで、この問題を中心的な研究対象にしたのでした。
彼の本はスウェーデンやスカンジナヴィア諸国の大学向けにスウェーデン語で書かれています。英語にすら翻訳されておらず、私はこの本が大変重要だと思ったので、自分でドイツ語に翻訳しました。
この映画をつくった翌年に、イグラさんは亡くなってしまいました。
質問5 なぜトイヴィさんは英語で話しているのですか。
ペーター・ネストラー この映画はドイツ製作でしたが、彼はドイツ語ができなかったからです。トイヴィはずっとアメリカで生活しているので英語を話します。この映画がドイツだけでなく国際的に上映されることも見越して、映画の大半は英語で話されています。ただし、時々彼がドイツ語を使う場面があります。彼が子供のころに話していたイディッシュ語が混じっています。映画でも語られていたように、イディッシュ語は14、5世紀の古いドイツ語とよく似た言語なのです。
彼は感情が高ぶっている時に、ドイツ語、イディッシュ語が出ることがあり、例えば骨を拾う場面がそうです。「ここで虐殺されて、誰も後始末をしないで放置されている」というところは英語で話されるのですが、その後で、「みんなユダヤ人だから」と言うところは、ドイツ語・イディッシュ語で語り、その後でまた英語に戻ります。また、彼が「森の中でひとりきりになった」と話す場面は、友人がいなくなりどうしていいかわからない、次に自分が殺されるかもしれないという感情がその場で甦っています。そこでもドイツ語というよりイディッシュ語が英語に混じります。彼自身がコントロールできない状況で話しているのです。
質問6 『良き隣人の変節』をみて、『SHOAHショア』とぜんぜん違う印象を持ちました。クロード・ランズマンの作品についてはどう思いますか。
ペーター・ネストラー 私は、クロード・ランズマンの『ソビブル、1943年10月14日午後4時』という映画に関して、この作り方はよくないと思っています。それでも彼が人生をかけてつくった9時間の『SHOAHショア』は大変重要な作品で、そんな重要な作品を作ったランズマンに非難を投げつけることはしたくありません。もちろん、ランズマンもトイヴィと同じく危険の中を生き延びた人です。私は彼の家族がどうなったかは覚えていないのですが。
質問7 映画を上映された後のトークやシンポジウムは、スウェーデンやドイツでもよく行われるのでしょうか。
ペーター・ネストラー 『死と悪魔』(Tod und Teufel,2009)という私の近作ではシンポジウムを行いましたが、この映画では行っていません。この映画はTVで2回放映されただけで終わってしまったからです。映画の主題が厄介なものだったからかもしれませんが、いまならドイツでもこの映画をみせるチャンスが大きくなっているかもしれません。それでもこのテーマは歓迎されないものです。しかもポーランドなどの周辺国からのクレームも来るでしょう。過去の暗い問題を掘り起こされたくないからです。
最後に一言だけ述べたいと思います。私はドイツで教育を受けましたが、学校での歴史教育は第一次世界大戦で終わっていました。ナチ時代を包む1940年代、50年代についてはまったく語られませんでした。教師が意図的にそうしたのだと思います。彼らも一員だったわけですから。それが大きく変わったのは、1968年の「革命」というか、若者たちの蜂起によってです。親たちの世代の沈黙を破り、それによってドイツでは様々なことが話されるようになりました。
この作品はスウェーデンではテレビですら放映されませんでした。ドイツ製作というのもあるのですが、スウェーデンではこうした1時間を超えるドキュメンタリーは長すぎるためチャンスがありませんでした。もちろん、スウェーデンにも対ナチ協力の問題はあります。特にスウェーデンは鉄鋼産業が盛んだったため、ドイツへの経済援助によって戦争が長引いたという過去もあります。しかし、やはり一番悪いことは沈黙であって、それに対抗しなければならないと思っています。
『良き隣人の変節』
Die Verwandlung des guten Nachbarn
2002年/84分
脚本・監督・製作:ペーター・ネストラー
撮影:ペーター・ネストラー、ライナー・コマース
1943年、15歳でポーランド東部のソビブル絶滅収容所に送られたトーマス・ブラットは、ソビブルの蜂起を体験して生き延びた53人のうちのひとりである。彼は現在の収容所跡地を訪れる。その穏やかな口調にドラマ性はなくひたすら収容所の事実が明らかになる。
協力:渋谷哲也、出町座、ヴュッター公園、同志社大学今出川校地学生支援課
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