『20年後の私も美しい』ソフィー・フィリエール
結城秀勇
[ cinema ]
ふたりの女優がひとりの女性の異なる年齢を演じる映画だと聞いていたから、ひとりが現在にあたる時代を演じ、もうひとりが同じ人物の過去、あるいは未来を演じているのかと思っていた。しかし、『20年後の私も美しい』という映画におけるふたりのマルゴーは、まったく同一の時代を同時に生きている。さらには、ふたりを同一人物だと断言できる決定的な証拠はなにひとつ劇中で提示されない。
それでも、サンドリーヌ・キベルラン演じるマルゴー(便宜上、マルゴーAとここでは呼ぶ)は、アガット・ボニゼール演じるマルゴー(同じくマルゴーBと呼ぶ)がいままさに経験しつつある事柄を、かつて経験したことのように知っている。学業上の問題、セックスの対象となる男性の名前、同棲している友人の名前と彼女に待ち受ける苦難、携帯電話の番号、エトセトラ、エトセトラ。マルゴーAの知恵は次第にマルゴーBを引きつけ、彼女たちは自分たちがただの他人ではないどころか、互いが同一人物の異なる年代を生きているのだと信じるに至る。
だがこの映画の描写で興味深いのは、マルゴーAがマルゴーBの生きつつある人生をまるで予言のようにピタリピタリと言い当てて、かつてマルゴーAが経験したネガティヴな事柄を回避してマルゴーBがより良い人生を生きるために役立てるのかというと、意外とそうでもないことだ。マルゴーBの問いかけに対して、けっこうなことをマルゴーAは忘れている。それはつまり、もし仮にふたりのマルゴーが同一人物であり、ひとりがもうひとりのマルゴーの人生をそっくりそのまま反復しているに過ぎないのだとしても、後発のマルゴーがいま生きつつあるひとつひとつの事柄の大きさは、20年後のもうひとりのマルゴーがいま記憶しているものとは全然異なるものだということでもある。
この映画の原題「La belle et la belle =美女と美女」は、「La belle et la bête=美女と野獣」を参照したものでありながらも、「et =と」のありようがまったく真逆のものになる。「美女と野獣」において美女と野獣という対極にあるふたつの要素をひとつところに結びつける「と」は、「美女と美女」というまったく同じ言葉を接続するにあたって、ふたつのまったく同一の言葉を、同一ではないなにかへと決定的に切り分けてしまう。物語が進むにつれて、ふたりのマルゴーが同一人物であるにしろないにしろ、その「と」によって同じはずの「美女」という言葉はそれぞれの個を生きることになる。
ふたりのマルゴーを同一のものとして重ね合わせ、また別のふたつのものとして展開する、この蝶番のような「と」の存在は、ふたりの間に現れるマルク(メルヴィル・プポー)という男とどこか似ている。マルゴーAにとっては長い期間付き合っていた元カレとして、マルゴーBにとっては偶然が引き合わせた年上の男として現れる彼は、普通に考えれば、ふたりのマルゴー同一人物説を決定的に破綻させる存在であるはずだ。なぜなら、マルゴーAが初めて出会ったときのマルクは、マルゴーBが出会う年齢の男ではなかったはずだから(実際に、マルクはマルゴーAと別れてから病を患ったことを口にするし、職業上の問題を抱えてしまっていることもほのめかす)。にもかかわらず、ふたりのマルゴーはそのことについて語りもせず、自分たちがひとりの女性の人生の異なるパートを生きているという考えを改めるきっかけにもならない。
むしろ重要なのは、ふたりのマルゴーがマルクをどう見たのかということよりも、逆にマルクが彼女たちをどう見たのかということかもしれない。当然のように、マルクは彼女たちが同一人物だなどと考えもしないし、それどころか彼女たちが似ているとすら認識していないようだ(まあ彼に限らず、あらゆる登場人物が、ふたりのマルゴーの間に類似を見出さないわけだが)。と同時に興味深いのは、彼は同じ名前を持つふたりの女性を、特定の観点で値踏みをしたり秤にかけたりしているようにも見えないことだ(年齢であれ、社会的地位であれ、セックスの相性などであれ)。マルクは、ふたりのマルゴーが同一人物だから両方とも誘惑せざるを得ないというよりも、ただふたりのマルゴーのことがそれぞれに異なったあり方で好きなだけ、というふうに見える。
本当のところ、マルクがふたりのマルゴーをどう思っているのかなんてわからない。だが、その曖昧さこそが、この映画でマルクという男がふたりのマルゴーの人生において果たすなんらかの意味なのだという気もする。彼がマルゴーAやマルゴーBの、本人たちも気づかない価値を見出すのではない。彼を通じて彼女たち自身が、自らの価値を見出すのだ。マルクの家に泊まったマルゴーAは、翌朝、すでに出かけたマルクの置き手紙を見つける。それは鏡文字で書かれているので、解読するためには鏡に映し出さねばならない。そこでマルゴーAは、自らの目で自らの美を発見する。
同じマルゴーという名も、ふたつの「美女」という言葉も、マルクというひとりの男も、ふたりの異なる女性を同一のものとして規定しはしない。ただ、ふたりの異なる女性の間を貫いて、同じ名前、同じ美、同じ男が通り過ぎるだけだ。ベッドのシーツから抜け出したマルゴーBの腰の周りのわずかな部分だけを覆う下着の、目の覚めるような蛍光ピンクが、次のシーンでジョギングするマルゴーAのシューズの色として、なんの理由もなく彼女の足元を彩るように。そんなふうに別の誰かの人生の一部をほんの束の間生きることになるのは、なにもふたりのマルゴーだけに限ったことではなくて、私たちの誰もがそうなのかもしれない。