『月夜釜合戦』佐藤零郎
結城秀勇
[ cinema ]
一見釜のように見えるそれは、実は盃なのである。なので米を炊くのにも使わないし、なにかを茹でることもない。ところが本当は盃だから米を炊かないのかというとそれだけでもない。この映画にはちょっと見たことのない量の釜が山のように登場するが、それら本物の釜たちも基本的には米を炊くためには使われない。釜のような盃、が紛失したことによって、同じ見た目の釜たちの交換価値は本来の使用価値に対して異常に高騰し、そのせいで竃の上で調理に使われる代わりに、町中に流通するのである。
貨幣のような意味を持ってしまった釜が、しかし本来人の腹を満たすために使われる象徴的な道具であることは、『月夜釜合戦』を喜劇として成立させる骨子ではある。けれども釜のような盃、の本来の用途にしたって、別に直接的にただ酒を飲むことにあるわけではないのだ。ヤクザの代替わりの儀式に用いられ、擬似的な家族形成の象徴となる盃が、釜のかたちをしていることはそれだけでまあ滑稽ではある。だが、釜=食、盃=権威の継承といった象徴的な意味が形態の類似によって混同されてしまうこと以上に、まず釜のような盃の存在そのものがおもしろいということ、それが『月夜釜合戦』のなによりの魅力である。
まず、ちゃんと盃として日本酒を飲むために用いられる(だがそこに権威の継承はない)。次いでランドセルになる(!)。さらにはカンパを求める器になり、貯金箱のような金庫のようなものにもなる。単純な機能の多様性というよりも、あのこじんまりとした佇まいの中にそれを秘めていることがたまらなく愛らしい。加えて、この釜のような盃にとっての守護天使のような存在となるのが、それをランドセルとして用いる孤児の少年であるということも、もうそれだけで映画として成立している。
釜のような盃、が抱える多様な機能や多層的な意味は同時に、『月夜釜合戦』のあらゆる場面で、あらゆる人物、あらゆる細部にまで宿っているものでもある。釜ヶ崎という場所、労働者、娼婦、孤児、資本と権力。あえてフィクションという形態で撮られたこの作品において、すべてがすべて釜ヶ崎のありのままを映しているなんて言い方は決してできない。画面に映っているのは、釜のように見える盃なのかもしれないし、盃によく似た釜なのかもしれない。それでもそれが釜なのか盃なのかは置いておくとして、その釜のように見えるなにかが非常に魅力的だと断言することは誰にでも可能なことだ。そのためにこそ『月夜釜合戦』はフィクションでなければならないのだし、この作品はフィクションの力をあまりに堂々と、誰はばかることなく、獲得している。
だからこそ、この映画を見ている間、ふたつの相反する欲望を同時に抱く。16mm映写機の駆動音が聞こえる小さな会場で、映画の中に出てくるような人たちと熱気を共有しながら見てみたいという気持ちと、バカでかいシネコンで、他人事でしかない物語として見つめる多くの観客のひとりとしてこれを見てみたいという気持ちと。世界に一本だけの16mmフィルムを抱えて津々浦々を回り、同じ時間にはたった一箇所でしか上映できないシステムの上映活動を強く支持したいという気持ちと、まかり間違って『カメラを止めるな!』の代わりに民放で放送されちゃって、なにも知らないお茶の間に届けられたらおもしろいんじゃないかという気持ちと。
たぶんそのいずれにも耐えうる魅力を、『月夜釜合戦』はその釜のような盃みたいなどこかすっとぼけた外見のうちに湛えている。だから私は、どんな場所、どんな環境でこの映画を見てもそのたびに、墓場のダンスで「そうだよな、これでいいんだよな」と確信し、舞い散る札束の中でのロマンチストな二代目ヤクザの演説に微笑んでしまい、その後公園にいるあらゆる人物を貫く怒りの感情に涙してしまうだろう。そのたびに、一言で言って、勇気をもらうのだろう。