『35杯のラムショット』クレール・ドゥニ
隈元博樹
[ cinema ]
パリの公共鉄道「RER」の運転席から映し出される郊外の風景と、幾重にも蛇列する複数の線路が並ぶオープニングの様相は、この『35杯のラムショット』に漂う複雑さと、ある種の脆さをそこはかとなく暗示している。だからこの映画が父と娘の物語であることは事前に知り得ていたものの、父のリオネル(アレックス・デスカス)と娘のジョゼフィーヌ(マティ・ディオブ)が暮らすアパルトマンでの冒頭のやりとりから戸惑ってしまう。リオネルが仕事から帰ると、台所で食事を用意していたジョゼフィーヌはすぐさま玄関先の彼の元へと駆け寄り、キスと抱擁をたがいに交わす。「たばこくさい」と彼女が言えば、「また吸ったよ」と彼は白状し、彼女は冷蔵庫の食材を物色しながら「サラダにしようか」と提案。「それでいいよ」と彼はシャワーを浴びに浴室へと向かう。その後、リオネルは帰りに買ってきた赤い新品の炊飯器をジョゼフィーヌに披露し、ふたりは炊いたご飯を美味しそうに頬張る。何だかまるで年の離れた夫婦のようだ。
やがて物語を辿っていくうちに、リオネルは妻に先立たれたものの、同じアパルトマンに住む恋人のガブリエル(ニコール・ドーグ)やノエ(グレゴワール・コラン)に見守られつつ、亡き妻とのあいだに生まれたジョゼフィーヌと暮らしていることがわかるのだが、同僚の退職祝いで二日酔いに伏したリオネルの手を握って介抱するジョゼフィーヌしかり、結婚して家を出て行くことを勧めるリオネルに思わず抱きつく光景しかり、ふたりの姿はたんなる父と娘の関係ではなく、それ以上に男と女の関係であることをまざまざと意識させられることになる。
こうした父と娘による一連の所作や台詞の節々を拾い集めていくと、小津安二郎の『晩春』に登場する周吉(笠智衆)と紀子(原節子)の姿と重なり合う。婚期を逃しつつある娘の将来を案じ、結婚して早く家を出るように仕向ける父と、男手ひとつで育ててくれた父をひとり鎌倉に残してはならぬと思い悩む娘。ただし、父から打ち明けられた嘘の再婚話に動揺しつつも、花嫁衣装の色打掛を羽織るまでの過程には、親子の関係性では収まることのない、過剰なまでに洗練された男と女の姿があったはずだ。
しかし、彼らのあいだに漂う禁忌な状況を分かつものとして、『晩春』には親子最後の旅行の場面で映し出される床の間の壺の存在があり、『35杯のラムショット』には炊飯器の存在がある。旅館の寝室で布団を並べて語り合うなか、父のいびきとともに突如として挿入される壺のたたずまい。その光景と重なるようにして、赤い炊飯器の隣に新たな白い炊飯器が並べられるラストシーンは、亡き妻のネックレスをジョゼフィーヌに与えること以上に、また掟破りの35杯目のラムショットに手を伸ばすこと以上に、ジョゼフィーヌがリオネルの元を離れ、新たな環境へと決意したことを強く物語っている。ここで吉田喜重『小津安二郎の反映画』の言葉を借りるならば、壺=炊飯器によって導かれる別離や旅立ちの機能とは、映画の中で描かれた戯れのきわみであり、さらには監督のクレール・ドゥニが小津の映画によって喚起されたひとつの術なのだろう。赤い炊飯器の隣に白い炊飯器が置かれることなんて、たしかに何の変哲のないことなのかもしれない。ただそれでも、同じ炊飯器で米を炊くことのないふたりを想像してみたとき、私は不覚にも泪してしまった。
アンスティチュ・フランセ東京「映画/批評月間 ~フランス映画の現在をめぐって~ 」にて上映
※『35杯のラムショット』は4/21(日)最終日に上映あり
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