『スパイダーマン スパイダーバース』ボブ・ペルシケッティ、ピーター・ラムジー、ロドニー・ロスマン
結城秀勇
[ cinema ]
オープニングのSONYのロゴがインクのドット状に分解して散っていくところで、すでになんだかアガる。「スパイダーマン」シリーズに限らずマーベルのロゴが出るときの、あのアメコミ独特のインクのドット感が気持ちがいいのってなんだろうと思っていた。紙の手触り、インクの匂いへのただのノスタルジーなのだろうか(ついでにマーベルユニバースへの統合に向かう流れの前に消えていってしまったフィルムの粒子へのノスタルジーなのだろうか)。でも『スパイダーマン スパイダーバース』のおもしろさは、そのドットと粒子への愛着にこそある。そしてこれこそが重要なのだが、その愛着は全然ノスタルジーではない。『LEGO® ムービー』のフィル・ロード&クリス・ミラーが製作に(ロードは脚本も)名を連ねる本作では、ドットや粒子は単なる意匠の問題ではなく、我々の存在に物質的に関わる要素なのだ。
マイルス・モラレス(シャメイク・ムーア)が制服に身を包み登校する場面。赤と白に黒スウッシュのエア・ジョーダン1で跳躍して、ブルックリンの街中にペタペタと手製のステッカーを貼り付けていく姿は、もはやすでによく見慣れたコンピュータージェネレイトされたアニメーションの動きで、それが多少並外れた動きであっても基本的に我々がよく知る物理法則に沿ったものとして見える。だが一度マイルスやその他の人物の顔のアップになるとき、べったりと塗られた色彩、線で描かれた鼻筋や唇、そして効果線やドットで示される陰影という、前CG的な手法で彼らの表情は描かれる。彼らがものを強く叩けば何本かの効果線が発生し、マイルスがクモに咬まれたことで起こる最初の変化は、心の声がコミック調に四角い吹き出しとして出現してしまうということでもある。いくつもの平行世界が存在し、それが混在することで崩壊の危機を迎えるこの次元を守る、というのが『スパイダーバース』のストーリーだが、それ以前に、マイルスたちはその身体にいくつもの異なる次元を備えて生きている。
だから、世界の危機で平行世界にいる「スパイダーピープル」たちが一堂に会する、というアイディア自体にはさほど驚かない。驚かないはずなのだがーーここでは詳細を省くがーー実際に「スパイダーピープル」全員集合の瞬間には度肝を抜かれた。本当に次元が違う現象が画面の上で起こっており、その画面上では世界というなんらかの仮想の総体はすでに崩壊してしまっている。そこから先はもう、すでに崩壊した世界を崩壊から救うというとんでもない転倒が、目まぐるしい速度と色彩の奔流の中で起こる。正直、それを眺めるだけで、他にはなにもいらない。
おそらく、この映画のアイディアの根底にはスパイダーマンというキャラクターのアイデンティティが深く関わっているのだろう。彼は物理法則を無視して空を飛ぶのではなく、慣性の法則を利用して上昇と下降を繰り返す。スパイダーマンになるためには(たとえそれがどの次元であっても)身近な人を救うことができなかったという、「救い切れなさ」を噛みしめる必要がある。スパイダーマンの超人的な動きが我々を魅了してやまない理由は、それがいくつもの限界に規定されたものだからだ。CGの発達とともに、彼が何度も何度もニューヨークのコンクリートジャングルを跳んでいくのを眺めてきたが、おそらく完全に100%CGであった方がまだ自然である『スパイダーバース』において、インクのドット、スプレーの飛沫という重さを身にまといながらーーそれゆえにーースパイダーマンはかつてないほど高く跳ぶ。
クライマックスの戦闘シーンでは、もはや空間の天地も失われ、時間の前後も失われた中、押し寄せるもうひとつのニューヨークをくぐり抜けて、スプレーで黒くペインティングされたスパイダーマンが跳躍する。そこにはもはや、超高速で集合し離散する光と色彩の粒しかない。それを見ていて、これこそが我々の時代における運動なのかもしれないと思う。
エア・ジョーダン1、ハーパンで赤スウェットパーカの上からMA-1を羽織った下に、手製で黒くペインティングしたスパイダースーツというデザインが、90年代を思わせると同時にとてつもなく現代的であるのと同じように、CGに覆い被さるドットパターンとコマ落としのようなフレームレートもまた懐古ではなく現代的だ。おそらく我々もまた無数のスパイダーピープルと同じように、なにか「救い切れなかった」ものとともに生きている。そうした意味でこの映画が語るように、我々はみなスパイダーマンなのかもしれないし、我々がすべきなのはその上で「信じて跳ぶ」だけなのかもしれない。そしてそれは決して過去を忘れることではない。