『グッドバイ』今野裕一郎
三浦翔
[ cinema , theater ]
分断された川の向こう側に男がいる。その男がこちら側に戻ってきたときには記憶を失っている。あるいは電話の向こうにいる相手には見えないはずの風景を伝えようとする女たち。分断された川に限らない、「ここ」と「よそ」を思考することが『グッドバイ』のテーマではあるだろう。
それは今野裕一郎がバストリオというパフォーマンスユニットで試みてきたものでもあった。『わたしたちのことを知っているものはいない』(2016)という公演では、目の前にいた役者が外に出てから電話を掛けて来たり、突然、役者たちが劇とは関係のない友達に電話をすることで、劇場という空間の外部へと観客の想像力を膨らませていく。ただし、それは「よそ」を想像させて満足させるようなものではない。その公演では、たとえば遠く離れた沖縄のことに触れられてもいたのだが、訪れて調査したものの報告がされたりするわけではなく、あくまで目の前の役者たちと何を作れるのか、観客と同じ世界に生きる役者の存在を肯定することが本題であったように思えるからだ。「ここ」にいる「わたしたち」をいかにして劇場という場所に持ち込めるか。それは観客の視線に晒されることを肯定する困難な仕事だ。にもかかわらず、今野は「誰でも舞台に上げられる、誰にも面白いところがあるから」とわたしに語ってくれたことがある。確信に満ちた今野の演出は、それぞれを自由な存在として観客の前に立たせる術を発明し、わたしたちのいる「ここ」を限りなく押し広げようとするかのようだ。
こうした今野の演劇作りが『グッドバイ』にも大きな影響を与えていることは間違いない。内部と外部を隔てる建築空間ではなく、「こちら側」と「あちら側」が分断された川のある街を劇場として演劇を試みるのである。もし仮に、「ここ」と「よそ」を映画で思考するならば、簡単に映像を持ってくることが出来る。たとえば劇中で言及される空襲の映像を引用して見せることも可能だろう。しかし、そうした方法を今野は取らなかった。代わりにあるのはやはり役者の身体である。手を伸ばして「雲!」と叫びながら空を仰ぎ見ることは、ある悲劇や惨劇の映像を見ることとどう違うのか。そのどちらが正しいかと問うことにはあまり意味がないと思えるが、すくなくとも今野はわたしたちの場所を何かで置き換えてしまったり、想像力という語で濁した安易な答えを出すこともしなかった(むしろ映像は想像力を奪う代物でもある)。到達できない何かとの間に分断された線を引き、あくまで「ここ」に留まること。むしろ「ここ」を見つめ直すことに何かが掛けられているのは、佐々木敦が『わたしたちのことを知っているものはいない』のアフタートークで語っていたように、ゴダールの『ヒア&ゼア こことよそ』(1976)の結論に通じる思考かもしれない。ただし、それが全く違うやり方でなされていることの方が興味深い。
今野は誰かとともに作品を作ることで映画を自由にする。映画の形式は新たな他者と出会うたびに変化するだろう。とりわけ『グッドバイ』においては、映画のドラマ的なリアリズムは吹き飛ばされて、カメラの前では踊って見せよとばかりに、それぞれの役者の声と身体が空間を手にしていく(それは文字通りに踊る坂藤加菜に限らない。土から這い出てくる菊沢将憲からは、戦争から帰って来てヘビになってしまった男が出てくる今村昌平の映画を想起させもする)。
その方法はたしかにバストリオの演劇さながらでもあるが、いわゆる「撮影された演劇」では決してないことを付け加えておかねばならない。なぜ映画では、役者はカメラに向かって語りかけてはならないとされてきたのか。『グッドバイ』はそんな因習から離れて、カメラの前で風景と身振りを新たに発明し直している。そもそもここには、演劇を外から撮影するような、虚構も第4の壁も存在しない。坂藤さんは坂藤さんで、郷田さんは郷田さんで、役者は登場人物でもあり、同時にその人としても映画のなかで生きることが可能だろう。むしろ問わなければいけないのは、なぜわたしたちは日常から演劇を追い出してしまったのかということの方ではないか。『グッドバイ』は日常のなかに演劇を持ち込むことで新たに映画を発見している。いや、そもそも映画は、生まれたときからそのような実験を繰り返してきたはずだ。だからこそ、この映画を形式の破壊ではなく、新たな方法として迎え入れることが必要である。
そのようにして演劇的な、「ここ」と「よそ」を思考する劇場的な方法を用いることで、映画は目の前の景色を一変させる装置へと変貌するだろう。「ここ」に拡がった風景を「よそ」に行った人も「よそ」から帰ってくる人も共に生きる場として作り直すこと。それこそが今野の闘争である。