『ジェシカ』キャロリーヌ・ポギ&ジョナタン・ヴィネル
結城秀勇
[ cinema ]
「オーファン」と呼ばれるはぐれ者たちは、その呼び名の通り孤児であるがゆえに自らの内にある暴力性に抗うことができずに、犯罪を繰り返すのだという。どこからともなく現れたジェシカと呼ばれる女性が彼らをまとめあげ、「オーファン」たちを処刑するためにつくられた「特殊部隊」に抵抗する組織をつくりあげたのだという。こうした設定のようなものはボイスオーバーによってさらりと語られるのだが、いったい「オーファン」たちの抱える暴力性とはどんなものなのか、彼らはどのような犯罪を犯したのか、だいたいジェシカはどんなふうに孤児たちを組織化したのか、といったことはまったく映画に描かれない。いやそもそも、タイトルに掲げられたジェシカという女性自体、彼女の象徴的で抽象的な存在以外はなにひとつ観客は知ることがないのだ。
「メタルギアソリッド」に登場するキャラクターがジェシカのモデルとなっているそうだが、そのことから想像しがちな(それこそ湾岸戦争以降延々と語られ続けてきた)ビデオゲーム的な暴力の発露は、意外にもこの作品のわずかな部分しか占めていない。軍隊や特殊部隊を想起させるコスプレ装甲をまとい(お約束として女性の装甲は露出部が男性より多く)、銃器や日本刀で戦う彼らだが、劇中の大半の時間を、戦闘ではなく、トレーニングしたり、買い物したり、ご飯食べたり、音楽を聞いたり、恋をしたりしてすごす。ジェシカを除いて、男性で構成される「オーファン」たちの組織はホモソーシャルな集団だが、それは(かつての)軍隊のようにそうであるというよりも、男子校のそれに近い。デヴィッド・ロバート・ミッチェルが『アメリカン・スリープオーバー』で描いた、女の子たちのお泊まり会の裏側で行われる男の子たちだけのお泊まり会のように、彼らは一箇所に集まってお昼寝をする。
少年の内にある狂気や暴力性だとか、子供たちが大人の社会を破壊するために組織化するだとか、そしてそれがビデオゲームを模倣するように表象されることだとかは、20年以上前にすでに使い古されたアイディアであるはずで、それ自体を評価しようという気はさらさらない。だが、『ジェシカ』におけるゲームが現実をオーバーラップしていくありかた、狂気や暴力が日常をオーバーラップしていくありかたは、やはりかつて世紀の変わり目前後に相次いでつくられた「恐るべき子供」像とはだいぶ違うように思う。
繰り返すが、「オーファン」たちが戦わねばならない理由は、彼らが孤児であるために大人たちのつくった既存の社会に適合せず排除されるからだ。だからこそ彼らは打ち捨てられた(?)無人の屋敷をスクウォッティングしてそこを隠れ家にする(実際はたいして隠れてないが)。だが、彼らを目の敵にする大人たちはいったいどこにいるのだろう?彼らが占拠する家は誰が建てたのだろう?彼らを襲う「特殊部隊」の虫のようなドローンを送り出しているのはいったいどこいる誰なのか?この映画には大人が出てこない。より正確に言うなら「親」が出てこない。
「オーファン」たちが新しい隠れ家を求めてたどり着いた島には、彼らと同世代の少年少女たちがいる。「オーファン」とは違って家族も住む家もあるはずの少年少女たちだが、彼らの親の影は一切見えない。敵も味方もみんな子供なワンダーランドのようなこの物語の背後では、なにごともなかったかのようにショッピングモールは水やシリアルやアイスを販売し続けるし、銃器やバイク、ヘリコプターのような軍需品の生産も滞りなく続けられるのだろう。
もはや映画がゲーム化することも、もっと言えば現実がゲーム化することも、たんなる逃避と呼べば済むようなことではなくなっている。たとえばAIやロボットに仕事が奪われる未来を労働者たちが恐怖するとき、移民たちに仕事が奪われることをすでにその地域に住んでいる人々が嫌悪するとき、隣国からの侵略を警戒するとき、我々はいったいなにを恐れ、なにを憎んでいるんだろう?人間らしさだとか男らしさだとか民族性だとか国土だとかが、奪われること?そんなものほんとにあるの?
もしAIやロボットが人間と共に労働を担うならば、我々は機械たちと連帯する可能性を同時に得るはずだ。もし隣の国や遠くの国から仕事を求めて来る人がいれば、我々は彼らと連帯する可能性を同時に得るはずだ。もし映画がかつて担っていた役割をゲームやネットドラマとシェアするのなら、映画はそれらと連帯する可能性を同時に得るはずだ。いまのところそれがかつて映画がもっていた神話的な輝きに到達しうるものなのかはわからない。でも「半分神話」くらいにはなっている、というかその「半分神話で半分現実」というさじ加減こそ、我々の時代が得た新たな輝きなのではないかと、この『ジェシカ』や『アンダー・ザ・シルバーレイク』のような作品を見ていると思う。
ジェシカ率いる「オーファン」たちが、大人たちのつくった社会に革命をもたらすとは、この映画のラストを見る限りとても思えない。自らの内にある暴力性とともに彼らの一員に加わって闘争することは可能か、と問われれば、そうした資格が自分にあるか首を傾げずにはいられないが、だがしかし、自らは「オーファン」ではないにもかかわらず彼らに力を貸すひとりの少女のようには、彼らと連帯することはできると思った。
アンスティチュ・フランセ「映画/批評月間~フランス映画の現在をめぐって~」にて上映。4/12に再上映あり
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