『バンブルビー』トラヴィス・ナイト
隈元博樹
[ cinema ]
はるか彼方の惑星を巡るロボットたちの宇宙戦争が、結局は地球上での肉弾戦に落ち着くのであれば、これまで「トランス・フォーマー」シリーズを牽引してきたマイケル・ベイの息吹を少なからず感じるだろうし、未知なる生命体とティーンエイジャーたちとの密かな交流が描かれるならば、ベイとともにクレジットを連ねてきたスピルバーグの影をそこに見出すこともできるだろう。しかし、『バンブルビー』が過去のシリーズと一線を画すのは、本作が「トランス・フォーマー」の前日譚として位置付けられていること以上に、監督のトラヴィス・ナイトや脚本のクリスティーナ・ハドソンによる80年代ユースカルチャーへのきわめて繊細で緻密なオマージュが散りばめられていることにある。
舞台となる1987年のサンフランシスコでは、カーラジオやウォークマンから流れるザ・スミスやデュラン・デュラン、アーハによるメロディラインが日常の中に溶け込み、最愛の父を亡くしたチャーリー(ヘイリー・スタインフェルド)は彼らの音楽によってひとときの拠り所を得ている。また、敵のディセプティコンから逃れて地球にたどり着いたB-127ことバンブルビーは、いつもの黄色い「シボレー・カマロ」ではなく、荒んだ中古の「フォルクスワーゲン・ビートル」に変形するし、拳を突き上げた彼のガッツポーズは、ガレージのブラウン管で放映される『ブレックファスト・クラブ』(1985年、ジョン・ヒューズ)からの引用だ。こうして散見されるエイティーズ礼賛の趣向からも、戦闘場面のスペクタクルを見物のひとつにしていた同シリーズとは、もはや異なる様相を帯びているように感じられることだろう。
しかし、『バンブルビー』に広がる過去の時代は、単なるノスタルジーを誘発させるものではない。この映画に惹きつけられるのは、それがいつどの時制であろうとも、失われたものを懐かしみ、過ぎ去った時間への郷愁に浸るのではなく、なくなってしまったものに代わる何かを手にするべく、自らの手で改良や刷新に努めようとする主人公たちの姿があるからなのだと思う。たとえば、惑星「サイバトロン」での記憶や咽頭部の発声機能を力ずくで敵に奪われたバンブルビーは、チャーリーの改造によって新たなカーステレオを埋め込まれるのだが、そのことで彼はラジオの電波から拾ったエイティーズのボーカル部分のサンプリングを可能にし、新たな言葉を持つことができるようになる。つまりそれは、自らの声を失ったからこその改良であり、彼なりの声を刷新する瞬間でもあるのだ。
どう足掻いたって、過去になくしたものは取り戻せない。ただそれでも、なくしたものに代わる何かを見つけ出すこと。故郷のサイバトロンが陥落した今、バンブルビーは声に代わる声を手にし、実父なき世界を厭世していたチャーリーも、やがて新たな父を迎えた家族や恋人の待つ家路を受け入れる。そして、元跳び込み選手の彼女が父との記憶とともに封印してきた高台からのダイブを決めたとき、あるいは戦闘を終えて敬礼するバーンズ少佐(ジョン・シナ)に対し、バンブルビーが敬礼ではなくガッツポーズの突き上げ拳で応じたとき、そこで流れるシンプル・マインズの「Don't You(Forget About Me)」は、より新鮮な音として聴こえてくる。まるでなくしたものを志向することは、同時に新しさを見つけ出すことでもあると言うかのように。