『愛がなんだ』今泉力哉監督インタヴュー
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関係の現状維持を目的にしてしまう人の物語に魅かれる
「体裁とか、不謹慎とか。友情とか、家族とか。生活とか、夢とか。社会とか、身分とか。そういう類いのものは"好き"という気持ちの前では無力だ」──今泉力哉の長編第三作『こっぴどい猫』の主人公が書いた小説『その無垢な猫』にあるこの一節は、角田光代の原作を映画化した彼の最新作『愛がなんだ』の主人公テルコのためにあるのかもしれない。職務を怠慢でクビになろうとも、面接を途中で放棄しようとも、無職でいようとも、彼女は迷うことなく好きな人と一緒にいたいという自分自身の感情を第一に優先することができる。
『愛がなんだ』は自分を犠牲にして相手に尽くすことを美徳とする女(と男)の物語。現在の日本における言葉遣いや間など日常の描写に細密の関心を払いつつ、片想いを主軸にしたトラジコメディをつくってきた今泉力哉は、近年、インディーズでの方法を保持したまま商業映画にそれを落とし込んでいる。
──これまでお互いを想う気持ちのウェイトに差があるカップルの関係性を考察してきましたが、原作ものである本作でもその主題は通じていると思います。
今泉力哉 何か原作の映画化を依頼されても別に自分じゃなくていいと感じてやらなかったこともありますが、『愛がなんだ』に関してはとても面白かったし、企画を依頼された意味もすんなりわかりました。50:50の関係はこの物語の中にも存在してないので、それはいつも通りでやりやすかったです。ただ、恋愛に対する温度の低さをこれまで描いてきたのに対して、今回は温度が高い人の物語なのでそこをどうやるかは課題でした。
──原作は一人称視点ですが、映画はひとつの視点だけでなく、後半に行くに従って多層化させていきます。それによって、脇の人物を主人公のために登場させないことにもつながっているように思います。
今泉 エキストラが嫌いということもあります。もちろん中目黒の飲み会の場面や冒頭の結婚式の二次会の場面などでエキストラの方々に協力してもらっていますが、本作の役付きの登場人物はめちゃくちゃ少なくて、8~9人ぐらいです。実はそれがすごく大事なことだと思っています。これでもう十分群像になる。これ以上、役がある人が出てくると、どうしてもひとりひとりが薄くなってしまったり、ワンシーンだけ出てくるとかになってしまう。今回はそこのバランスがよかったと思います。あと終盤にそれぞれのキャラクターの名前をテロップで出していったのは、脚本の時点からテルコがそれぞれと対峙していくような形で長回しで撮ることになっていくだろうと思っていたので、見やすさも含めて、『トーク・トゥ・ハー』(2002、ペドロ・アルモドバル)のように名前を出して区切って見せていくことを提案しました。それぞれの人物の名前の提示は、彼らがただの脇役にならないための意識もあったかもしれません。
──原作の魅力を全く損わずに忠実に映画化してるだけでなく、女性作家の作り上げた世界を男性監督が映画にしたことで、男性への同情的な視点をより加味しているように感じました。
今泉 共同脚本家が女性(澤井香織)というのもあったし、そういう意識は全くなかったです。ナカハラ(若葉竜也)はテルコの鏡なので、脚本をつくっていく過程で、彼の物語の割合が自然と増えていきました。実はナカハラはそれほど出ているわけではないですが、若葉くんが演じてくれたのが大きかったんだと思います。ただ、たしかに原作の方がもっと痛々しいところはあったかもしれません。
──原作では河口湖への旅行はテルコとマモルとすみれの三人だけで向かいますが、映画ではナカハラを帯同させていること、そして彼にアシスタントカメラマンという設定を加えたことが新たな魅力を生んでいると思います。
今泉 カメラマンの設定は脚本家さんのアイデアだったと思います。当初は、終盤にも結婚式の場面が用意されていて、久々にみんなが再会するときにナカハラが写真を撮る展開がありました。でもカメラを持ってる人が登場するのはベタになったり、オシャレっぽくなってしまう可能性もあったから、その点は注意していました。旅行の場面に関しては、原作では2泊3日ぐらいの予定で行くけど1日ぐらいでやることなくなって気まずいから帰ってくる場面で、これを映画でやるならそこで何かを起こしたい。じゃあナカハラも連れていけば出来事も起きると考えました。旅行先では、ナカハラが葉子(深川麻衣)との関係についてすみれ(江口のりこ)から責められる時間をつくりました。目の前で行われているその会話をマモル(成田凌)とテルコは見てる側だけど、彼ら自身の話でもある。あの場面は好きに書かせてもらいました。
──原作でテルコが高校の同級生にマモちゃんとの関係を話す場面が、あの場面に移植されています。あそこですみれは、原作ではやや曖昧なままだったナカハラと葉子の肉体関係に言及し、セフレと何が違うのかと指摘します。
今泉 ナカハラはテルコの対照でもあるから、寝てることを明確にしていきました。原作との違いで言えば、原作ではマモルから曖昧な関係性の終結について決定的なことを言われる場面のあとにナカハラとの別れの場面がありますが、その入れ替えも行いました。最後にマモちゃんと対峙するようにしたわけです。
──原作では最後にふたりはテルコ宅の近くの居酒屋で会いますが、映画では彼女の家を舞台にすることで、冒頭と対になるよう設計し直していますよね。
今泉 すでに居酒屋の場面が多くあったし、家に来てくれるってマモちゃんからすればだいぶのすり寄りですよね。わざわざ来てとある覚悟を伝えることはマモちゃんっぽいし、いつも行く側だったテルコを一瞬浮かれさせることもできると思いました。あとは冒頭でテルコが寝込んでいるマモルに味噌煮込みうどんをつくるので、逆に彼がつくるという返しをやりたい狙いもありましたね。
──『パンとバスと2度目のハツコイ』では主人公ふみ(深川麻衣)の自信のなさに自己投影されていると仰っていましたが、今回はマモルがベッドでテルコに自信のなさを吐露する場面があります。マモルにご自身の投影が入っている部分はあるのでしょうか。
今泉 マモルはテルコとセックスしようとするもののうまくいかなかった直後に、「中目黒って初めて降りた」とさっき別れたばかりのすみれのことをもう思い出してますよね。あのベッドシーンで、マモルはテルコが横にいるのに、すみれのことをずっと考えてる。だからああやって吐露してるのだと思います。それを聞いてるのって辛いけど、一方で弱音を吐いてくれたり、みんなには打ち明けてない部分を自分にだけ見せてくれてるのが嬉しかったりすると思う。自分が好きな女性と一対一でいるときに、相手から別に好きな人がいるという話を聞いてる時間を過ごしたことが実体験であったんです。その話をされてる時点で恋愛の対象としては全く見られてはいないけど、恋愛相談される距離にはいれている。悲しさと嬉しさの不思議な同居だと思ったことがありました。あの瞬間のテルコもただ切ないだけじゃない時間になっているのかなと思って撮りました。でもマモルはズルいですよね。弱さの吐露とか自分自身もすることがありますが、ああいう風な感覚ではないです。
──ナカハラが葉子を好きでいることをやめようと思うことをテルコに告げるものの、綺麗事だと彼女から批判されて去るときに唾を吐きますが、あの行為は原作にはありません。なぜナカハラに唾を吐かせようと思ったのでしょう。
今泉 あれは脚本にも書いていませんでした。現場で段取りを何回かやってもらってナカハラが去っていくところを見てたときに、若葉くんに唾吐いてみますかと提案しました。いいシーンになる感じはするけど、このまま終わったらナカハラがただのいい人で去っていくのでつまんないと思ったんです。ただ、テルコに向かって吐いたようには絶対見えないようにしてほしいと言いました。ビール飲んだりしてるから口が気持ち悪いでも理由は何でもいいけど、色んな感情を吐き出す感覚でやってほしかった。彼もなんか溜まってることを表現したいと思いました。でも、それが正解かどうかぼくもまだ迷いながらやってたから、編集で切れるタイミングを残して演じてもらいました。吐く吐かない、どっちでもいけるように。
──原作のある作品を手がけるのは『鬼灯さん家のアネキ』に続いて二度目ですが、前回は少し現実離れした設定のエロティックなコメディを実際の人間たちが演じるドラマにすることの難しさを感じさせる部分がありました。ともすれば、ナカハラも生身で演じたら口調など浮きかねないキャラクターだとも言えますが、今回は違和感はなかったように思います。
今泉 他者の書いた脚本を撮ることが本当に大変だと思ってます。自分が本に手を入れていないと、場面によっては理解できなかったり、難しいときがあります。それに、原作があるときは文語体と口語体、人が演じるときの言葉の違いは意識を高く持っておかないとどうしてもつくられた人物っぽくなってしまう怖さがある。極端な話、原作ものの脚本を誰かほかの脚本家さんと一緒にやるときは、頭からケツまでセリフの部分だけは一回全部直してもいいですかと提案することができる人とやりたいぐらい、セリフに対する意識が強くあります。言葉のちょっとした言い回しなども、どっちでもいいでしょみたいな感覚じゃない。そういう意味では今回はうまくいきました。
──特別な舞台をセッティングをするのではなく、日常的な場所でドラマが演じられていますが、そういった点も重要でしたか。
今泉 自主映画を撮ってるときの感覚に近かったりします。この映画においてよかったと思うのは、つくりもの──たとえばビールひとつ取っても、役者のスポンサーの関係や色んな事情で偽物になってしまうことが多いけど、今回はプレモルや金麦、エビスなどキャラクターごとに決めることができました。場所も原作に忠実な場所でやってるから、生活圏や住んでいる街の感じなどを意識してつくれたことは大きかったと思います。
──『知らない、ふたり』の英題は『Their Distance』ですが、今泉監督は、愛というよりも人と人の関係の問題、あるいは関係における距離について考察してきたと思います。『退屈な日々にさようならを』では「関係性の名前なんてあんまり意味ないですよ」と言う場面もありました。
今泉 高校生なら告白して付き合って恋人関係になるけど、ある年齢以降では寝たあとで付き合いますかってなることもあるだろうし、段階が逆になることがある。言葉にしてないから、もしかしたら片方は恋人だと思ってるけど、もう片方はそうとは思ってない場合もあるかもしれない。そこまでの勘違いをテルコはしてないけど、ただの括りに過ぎないと思うことはあります。
──そういった強い距離の感覚は自分の感情を率直に、あるいは詳細に表明しない日本だけに当てはまるものだと思われますか。
今泉 国はあんまり関係なく、どこの国でもその差はあると思う。海外の恋愛映画にもそういうシーンや感情は描かれていますよね。ただ、以前カナダの映画祭に短編で行ったときに、「ほとんどのカップルは付き合ってても結婚してても、その実は片想いで(想いのウェイトが)五分五分なんてほぼないと思う」という話をしたら、最前列にいたカップルから「私たちはそんなことはない」って感じで睨まれたのを覚えてます(笑)。でも日本人は特に表明しない部分はあるのかもしれません。「絶対そんな関係はダメだ」ときちっと結論づけて言う人はこの映画には登場しません。本作ではすみれがそういう役割を担ってるけど、彼女ですらテルコやマモルに近い人で、結局、生活圏や考え方が似てる人同士が生きている場所なんだと思う。
──以前、『知らない、ふたり』の英題を本当は『Our Distance』にしたかったと仰っていました。これまでの群像劇の今泉作品が客観的に誰かの距離を見つめていたとしたら、本作はより近くでテルコとマモルの関係について提起しているのかもしれません。
今泉 「Our」と「Their」ではもちろん温度感が変わります。ある種冷めた視点で見てるから、「Our」ではなく「Their」というのもわかるんですが、自分たちの物語であって、お客さんと別の世界のようにはしたくない。だから本作も「私たちの話」だと思います。小説自体にすでに『Just Only Love』という英題があったので、そのままタイトルにしましたが、それに決まるまでは色々な英題を考えてました。『寝ても覚めても』(2018、濱口竜介)が公開されていた時期だったから「TERUKO」という名前だけでもいいんじゃないかとか考えてました。海外は主人公の名前がタイトルになっているものも多いし、群像劇と言いつつ、実は岸井さんが出てない場面が2~3シーンぐらいしかないので。
──何もかも捨て、なりふり構わず好きな人に向かう熱量を持ったテルコには『寝ても覚めても』の朝子にも通じる性質があるような気がします。テルコは「別に世の中回すために生きてるんじゃないしね」と言いますが、彼女たちの社会でのあまりに正直な感情の表現方法は、私たちへの問いかけでもあるのかもしれません。
今泉 この映画の企画が始まった当初、(製作の)アニモプロデュースの男性の社長から、テルコは一歩間違えたら女性に嫌われる主人公になったり、ただイタい人の話になる可能性もあるという話になりました。この主人公を肯定する目線をぼく自身は持てるけど、登場人物の中には誰もいない可能性がある。そう思って、同僚の後輩(穂志もえか)を登場させました。テルコのことを羨ましいと思う人、想いが強いことを肯定する人を置こうという意識がありました。でもそれだけだと嫌だから、実は彼女は結婚する設定にしてさらにテルコを刺しに来るみたいなつくりにしました。
──テルコが家事を代わりにやって尽くす印象を受ける一方で、ナカハラは都合のいいように使われている印象を受けます。そこには固定化された男女の役割分担への意識が働いているのか、それとも個人の問題だと思われますか。
今泉 ナカハラとテルコそれぞれがそういう人なんだと思います。ジェンダー的な意味では、ナカハラがやってることって普通とは男女が入れ替わってますよね。男が強くて女が言うことを聞く形が明確に今までたくさんある中で、親を見てきた葉子にはそれに対してアンチの気持ちが強くあるから、ああいう人になってるんだと思います。具合が悪くなったテルコを見舞いに来た葉子が父親について話す場面がありますが、実はあそこはちょっと演出をミスったと思ってます。深川さんが結構ニヤニヤして喋ってるんですけど、これたぶん真剣だった方がよかったかもと出来上がってから思いました(笑)。シリアスになりすぎるのも嫌でオッケーにしたんですが、もっと父親にムカつけるのかもと今は思います。でもシリアスは違うしなあ。
──男の人のために自己を犠牲にして尽くす女性像、愛情と依存と執着の境界線を描いている意味では、『南瓜とマヨネーズ』(2017、冨永昌敬)も思い起こさせます。セイイチは彼女から尽くされることで甘えてヒモになりましたが、マモルや葉子も奉仕されることを当然のように振舞います。
今泉 mixiの『南瓜とマヨネーズ』コミュニティの管理人でした(笑)。甘えてる側の人の中でも葉子は一番冷静でわかって振舞ってると思います。一方、マモちゃんやセイイチは甘えてくるくせに、それがどっかで嫌なんでしょうね。ずっとそれでいいと思ってないから、めんどくさくなって離れるし、尽くされることもめんどくさいと思ったりしてる。ぼく自身も人と付き合ってる時間がダメで、あの感覚は距離感としてわかります。嫁と結婚するまでは付き合っても全然長続きしなくて、一年も続いたことがなかった。自分から告白したとしても彼女がいる状態が窮屈だったりして、すぐひとりになりたくなっちゃうんですよね。マモちゃんは人にあまりに内側にずっといられると突き放したくなる感覚がある。その目に見えない線をテルコは知らぬ間に跨いでしまいます。家に入り浸って洗濯物が知らぬ間に干されてる状況が起きてくると、彼としては勘弁してほしいとなるのかもしれません。編集で切ったんですが、ベランダで干した彼の服を抱きしめるテルコをマモちゃんが見てるところを撮りました。一番浮かれてるテルコを冷たい顔で見てるマモちゃんを撮りたいと言ったけど、唯一そのシーンだけ彼の視点になるからやめた方がいいと脚本家やプロデューサーから止められました。ただマモちゃん目線っぽく下から一個画は使っています。
──たしかにあそこだけ急に誰かが見てるのかと思いました。
今泉 あれマモちゃんです(笑)。帰ってきたマモちゃんが自分の家のベランダに浮かれてる女性がいるのが嫌だなって視点だったんですが、そこで彼への返しを入れてしまうと、そのあとの靴下の場面(自分とは違うやり方で勝手に収納ボックスに畳まれているのをマモルが発見する)が効いてこなくなったりもするから、その感情を先に提示しない意味でもそのカットは抜きました。
──カップルが結ばれてハッピーエンドを迎える通常のラブストーリーとは異なり、今泉作品は誰かと結ばれることではなく、関係の現状維持を求める人々の物語を描いてきました。だとすれば、これまでの問題をめんどくさくしたくないように動く温度が低い人物とテルコでは志こそ異なるものの、今回も着地は似ていると言えるかもしれません。
今泉 『微温』とか短編をつくっていた頃、映画学校の脚本の授業でそれを題材にしてもらったことがありました。そのときに、その授業の講師が、「普通の主人公は何か達成したい目的があって、そのために何かを求めるものだけど、今泉の映画は基本的に恋愛が崩壊していく人たちの話で、たとえば二股してる人がバレないようにしたり、だから現状維持することが目的になっている」と指摘を受けました。そのことをすごい久しぶりに思い出したけど、テルコの関係性ってたしかにそうですね。もちろん最初はマモちゃんの彼女になりたいとか彼と結ばれたいって意識で動いてたけど、途中から目的が今の関係が壊れるよりも維持することに向かってるところはありますね......そっか、そりゃあ、この原作を面白いと思うわけだ!と今思いました(笑)。みんな主人公を成長させたがるけど、何かを達成する人に興味がなくて、現状維持を目的にしてしまう人の物語に魅かれるところはあるのかもしれない。
──小学生のテルコを登場させたのはそのあたりとも関連はありますか。
今泉 もっと物理的な問題として、ラストシーンでテルコが現状維持のために起こすある行動はそのままの映像表現だけだと、一歩間違うと伝わりにくいかもしれないという恐れがありました。ただ心の声としてナレーションを使っていくと全部説明になってしまうけど、子どもと会話させれば、明確に「本当にいいの?マモちゃんのこと好きなんじゃないの?」という感情の表現ができる。原作の持つ言葉の面白さを持ち込んだ方がいいと判断してナレーションももちろん使ってるんだけど、もうちょっと画でも表現できないかと考えて、子どもを登場させました。だから逆に子どもの方が大人びてたりもします。
──テルコとマモルが初めて出会う結婚式の二次会の場面では、今泉作品ではおなじみの青柳文子さんもちらっと出演されていますね。
今泉 出演してます。カメオですね。青柳さんは映画のインの2~3日前に渋谷駅でたまたま出くわして、「数日後に撮影あるけど来る?」って誘いました。ほとんど映らないけど、あのシーンの新郎新婦は実は『サッドティー』の柏木と夕子です。
取材・構成 常川拓也
『愛がなんだ』
2019年/123分/ヨーロピアンビスタ
原作:角田光代「愛がなんだ」(角川文庫刊)
監督:今泉力哉
出演:岸井ゆきの、成田凌、深川麻衣、若葉竜也、片岡礼子、筒井真理子、江口のりこ
配給:エレファントハウス
公式サイト:http://aigananda.com/
4月19日(金)、テアトル新宿ほか全国公開
<予告編>
https://youtu.be/oXc_JlCqQE4
今泉力哉(いまいずみ・りきや)
1981年生まれ。福島県出身。数本の短編映画を監督したあと、2010年『たまの映画』で長編映画監督デビュー。翌2011年『終わってる』を発表後、2012年、"モト冬樹生誕60周年記念作品"となる『こっぴどい猫』を監督し、一躍注目を集める。2013年、こじらせた大人たちの恋愛群像劇を描いた『サッドティー』が第26回東京国際映画祭日本映画スプラッシュ部門に出品。『知らない、ふたり』(2016)、『退屈な日々にさようならを』(2017)も、それぞれ、第28回、第29回東京国際映画祭日本映画スプラッシュ部門に出品されている。他の長編監督作に『鬼灯さん家のアネキ』(2014)、深川麻衣を主演に迎えた『パンとバスと2度目のハツコイ』(2018)など。新作に伊坂幸太郎原作&三浦春馬主演の『アイネクライネナハトムジーク』(2019年秋公開予定)が待機中。