『僕らプロヴァンシアル』ジャン=ポール・シヴェラック
マルコス・ウザル
[ cinema ]
<フランス日刊紙「リヴェラシオン」評より>
潜在的なる上昇
決然とした叙情性によって、ジャン=ポール・シヴェラックはパリに上京してきた学生の周囲に集まる情熱的な映画の学生たちの集団を描く。若者たちの理想についての非常に繊細な肖像画。
『僕らプロヴァンシアル』は、何世紀も前から、フランスの若者たちが、毎日、ほぼ同じような興奮と同じような幻想を抱いて行ってきた、きわめて小説的、ロマネスク的である次のような場面で始まる。故郷(この場合はリヨン)を出て、学業のためにパリに上京してくるエティエンヌ、シネフィルであり、映画監督志望の彼は、パリ第8大学の学生となる。なぜこれまでスクリーンに、哲学の学生、美術の学生、文学の学生があれほど登場しながらも、映画の学生はあまり登場したことがなかったのだろうか? それは入れ子構造やメタ言説、自己言及する映画へ陥るリスクがあるからだろう。
習得
ジャン=ポール・シヴェラックがそうしたリスクを完全に免れているのは、彼自身が映画学校(フェミス)の学生だったからだけでも、それ以後、自らが教える側(まさにパリ第8大学で)にいるからだけでもなく、なによりも、映画が幾人かの若者たちにとって表示している存在論的価値を心底、理解しているからだろう。彼ら学生たちは、可能性を秘めた、決定的な選択をする年齢にて、映画について語ること、あるいは映画をつくることが映画そのものからはみ出て行くことを知っている。彼らの好み、実践が自らの存在や、今後そうなるであろうすべてのものに関わってくることを。映画を学ぶ学生たちの中にも、ほかの場所と同様、純粋主義者もいれば、出世主義者もいて、要求の多い者もいれば、優柔不断な者も、傲慢な者もいれば、引っ込み思案な者もいる。そこから友情が生まれることもあれば、裏切りを引き起こすこともあるだろう。素晴らしき地平を広げることもあれば、完全なる否定、断念に至ることもあるだろう。協調的なジャン=ノエルと一徹なマティアスの間で、エティエンヌはその他大勢の優柔不断な者たちに属している。成功を望みながら、自分の理想を裏切りたくないのだ。
シネフィルであることは美学的教えの導きとなるだけではなく、社会的、政治的な教え、そして感情教育の導きともなる。言い換えれば、映画は彼らにとって世界に住む方法、あるいは少なくとも世界が住むことのできる場所であるということを示してくれるのだ。彼らはよく話す、なぜならそれが行動する最初の方法だから。彼らはそうして意思表示をするために、自分たちの思考を確立するために議論をする。多くの映画作家(フツィエフ、パラジャーノフ、成瀬)や哲学者(パスカル)、詩人(ノヴァリス、ネルヴァル、パゾリーニ)が引用されるが、彼らにとって、それらは、アルコールや、欲望された身体や、友人達の顔と等しく、日常の現実の一部なのである。
清澄さ
もちろん、妥協せざる者は傲慢であるとみなされるだろうし、芸術を私生活で語ることは学者ぶったペダントリーとされるかもしれない。しかし本作は、マティアスという登場人物を通して、彼ら若者たちの見かけの激しさ、荒々しさには、理想主義的なるもの、さらにはロマン主義的なるものが内包していることをはっきりと見せてくれる。純粋主義者、エリート主義者、和解せざる者、頑ななまでの情熱が軽蔑、不寛容と受け取られる者たちこそが、もっとも脆く、失望や裏切りといういやしようのない感情にさらされていることを。とても生きていけない、それでもよく生きなければならない、つまり幾つかの譲歩の中に身を落ち着かせ、それほど価値のない場所に自らを見出しながら。
(訳:坂本安美)
『僕らプロヴァンシアル』
2018年/フランス/137分/カラー/デジタル/フランス語[英語字幕]
監督:ジャン=ポール・シヴェラック
出演:オンドラニック・マネ(エティエンヌ)、ゴンザグ・ヴァン・ベルヴェセレス(ジャン=ノエル)、コランタン・フィラ(マティアス)、ソフィー・ヴェルベック(アナベル)、ジェナ・ティアム(ヴァランティナ)、ニコラ・ブショー(ポール・ロシ)、ディアンヌ・ルクセル(リュシー)、シャルロット・ヴァン・ベルヴェセレス(ヘロイーズ)
アンスティチュ・フランセ「映画/批評月間~フランス映画の現在をめぐって~」にて上映
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