『嵐電』鈴木卓爾
隈元博樹
[ cinema ]
嵐山本線(四条大宮駅−嵐山駅)と、北野線(北野白梅駅−帷子ノ辻駅)からなる「嵐電」(らんでん)こと京福電気鉄道は、京都市内を運行する路面電車のことである。「モボ」と呼ばれる車形に京紫やブラウン、また時として江ノ電カラーに彩られた小ぶりな車輌は、当然ながら地元の人々をはじめ観光客の交通網として京都の市内をひた走るのだが、いっぽうで本作に登場する嵐電は、人々の日常の一部を蠢くひとつの物体のようにも見えてくる。ゴミ置き場で井戸端会議に耽る主婦たちの背後を横切っていくこともあれば、修学旅行に浮かれた学生たちを尻目に縦へと抜けていく嵐電。衛星(井浦新)が線路沿いに間借りしたアパートの間近で、振動や汽笛を伴った車輌が颯爽と通り過ぎていくのは、そのことをつぶさに物語ってもいるだろう。また沿線には、嘉子(大西礼芳)が働く太秦のカフェや東映京都撮影所があり、撮影で東京から訪れた若手俳優の譜雨(金井克人)は、京都弁の方言指導を口実に渡月橋沿いの嵐山へと彼女を誘う。修学旅行生の南天(窪瀬環)曰く、「夕子さん」のラッピング車輌を見かけた男女は程なくして結ばれるらしいのだが、果たしてそれは本当なのだろうか云々......。ともあれ、過ぎ去っていく車体とその沿線に広がるロケーションとの親密性からも、映画『嵐電』とは、たしかに京都で撮られた映画であることが言えるだろう。
しかし、このように京都を決定づけるロケーションが散見されるものの、同時にこの場所は果たして京都なのかといった疑念にも駆られてしまう。たとえば、狭々しい路地裏や公道のシーケンスを練り歩く嘉子と譜雨、あるいは修学旅行生の南天と地元の鉄オタである子午線(石田健太)の姿は、どこか『ゾンからのメッセージ』の麗実(長尾理世)と一歩(高橋隆大)の姿に重なるし、青森から修学旅行で訪れた学生一行の不可解な戯れやラストに待ち受ける嵐山の撮影現場は、『ジョギング渡り鳥』におけるモコモコ星人たちの一挙手一投足を彷彿とさせる。つまりこれまでに鈴木卓爾が映画の中で体現してきたどこでもないどこかの場所で、撮ることと撮られることを交換可能とする愉悦の極地は、本作においても脈々と継承されており、京都とはまるで別世界のような場所として、観る者の前に立ち現れてくるのだ。
ただ、こうした不可思議な感覚は、場所の問題にとどまらず、嵐電をめぐる登場人物たちの記録と記憶の所在にも深く関わっている。太秦広隆寺駅のホームに隣接するカフェ「GINGA」での8ミリフィルムの上映会では、街の人々が所狭しと集うなか、嵐電の姿を捉えた過去のフィルム映像がスクリーンへ投写されるのだが、カフェの外では現在の嵐電が軽やかに線路の上を通り過ぎていく。スクリーンの内と外を走る嵐電によって過去と現在とがつなぎ止められたとき、やがてスクリーンの映像は個人の記録へと変わり、それらを眺める衛星や嘉子は、今までに見たことのない自身ばかりでなく、想いを募らせる他者の映像と対峙することとなる。それが果たして彼らの記憶の一部なのか、はたまた想像なのかはわからない。しかしここでの嵐電とは、各々の記憶を呼び覚ますだけでなく、新たな記憶との邂逅を果たすために必要不可欠な装置であることがわかるだろう。
だからこそ嵐電を愛用の8ミリカメラに収める子午線の「撮りたいもの撮りたくてこれ買ったんに、これで撮ったもん全部好きになってまうんや」の一言とは、嵐電を記録することで生み出されていた自身の記憶ではなく、嵐電以外の何かによって生み出される新たな記憶のことを示唆している。そしてそのことは、想いの通じた男女の前に現れる行先不明の最終電車のように、誰かを想えば嵐電は姿を現し、どこへでも連れ立ってくれるということなのだ。だから今日も、嵐電は京都ばかりを走っているわけでなく、きっと彼らの記憶の中を走っているにちがいない。
5月24日(金)よりテアトル新宿、京都シネマにてロードショー