第72回カンヌ国際映画祭レポート(5) 四人の女性監督たち
槻舘南菜子
[ cinema ]
昨年(2018年)のカンヌ映画祭では、は映画産業での男女機会均等を求め、審査委員長ケイト・ブランシェットを含む82人の女性(この数字は、カンヌ映画祭誕生から昨年までにノミネートした女性監督の数に由来する、対して男性監督の数は1688人)がレッドカーペットを歩くという象徴的なイベントが開催された。今年もまたフランス女性監督の草分け的な存在であり、ジェーン・カンピオンとともに女性監督として唯一パルムドールを受賞した、アニエス・ヴァルダの処女作『ラ・ポワント・クールト』の撮影風景がメインヴィジュアルに採用されるなど、女性監督に光を当てようという傾向が継続している。その流れのなかで、コンペティション部門21中、若き4人の女性監督が本年のセレクションには選ばれた。
ジェシカ・ハウスナー『Littele Joe』は、前作のコスチューム・プレイ『L'amour fou』はもちろんのこと、彼女のフィルモグラフィの中でも一線を画す抽象的な作品だ。監督自身が語るように、そのことは前衛映画作家マヤ・デレンに大きなインスピレーションを受け、彼女の作品のスコアを担当した伊藤貞次の音楽を使用していることからも明瞭だろう。主人公は遺伝子組み換え植物の研究所で働くシングルマザーのアリス。彼女は自分が開発したセラピー効果のある真っ赤な花を、自身の息子の名前に因んで「リトルジョー」名付ける。研究所の犬や、息子ジョーや同僚たちを介し、この植物の花粉に人格を変化させる効果があるのではないかと疑いだすという筋書きだ。『ボディ・スナッチャー』的なサイエンスフィクションのように見せかけつつ、他者とは一体何者であるかという問いこそがこの作品の主題となっている。圧倒的な色彩感覚ーー登場人物の髪色、纏う衣装から室内の細部に至るまでーーには目をみはるものがあるが、抽象性は重要な物語の核までも宙に浮かせてしまっているようだ。
セリーヌ・シアマ『Portrait of a Lady on Fire』
セリーヌ・シアマは、『水の中のつぼみ』『トムボーイ』の流れを引き継いで、新作『Portrait of a Lady on Fire』でもセクシュアリティの揺らぎとそれが結晶化するまでの時間を彫刻する。舞台は18世紀後半のブルターニュ地方の島。画家マリアンヌが、修道女エロイーズの母親からの依頼で、結婚用の肖像画づくりを依頼される。だが、エロイーズにとってそれは望まない結婚であり、彼女は自分が絵として描かれることを最初は拒絶する。画家とモデルとしてのふたりの関係は、バストショットの切り返しを介して語られる。ふたりの距離が徐々に縮まり、同一のフレームに収まる=恋に落ちるまでの経過が、ミニマルな演出で見せられる。端正で美しくはあるが、ミニマリズムに徹したその演出は少々アカデミック過ぎるようにも見え、ふたりの離別を決定的にする最後のシーンの演出は、たやすく予想されてしまうようにも思える。
一方で、ジュスティーヌ・トリエは、『ソルフェリーノの戦い』『Victoria』ら過去作から一貫して、仕事とプライベートの間で引き裂かれんとする女性を主人公におく。『Victoria』に引き続きヴィルジニー・エフィラを主人公のシビルに起用。心理カウンセラーとして働く彼女は、自身の小説家としてのキャリアを再スタートさせようとするも、女優マルゴ(アデル・エグザルコプロス)のカウンセリングを渋々引き受けることから物語が動きだす。出演作の主演俳優(監督のパートナーでもある)の子供を身ごもったマルゴに、シビルは創作のインスピレーションを見出し、彼女にのめりこんで行く。自身の過去と現在、現実と虚構、マルゴとシビル自身の人生が混じり合い、ストロンボリ島を背景にした撮影現場で、彼女は完全に正気を失う。その過程は、物語だけに依るのではなく、光と陰の演出、シビルがマルゴを見つめる視線が目眩のように崩れ始める編集の繋ぎによってダイナミックに描かれる。前作のロマンティック・コメディから一転したシリアスな心理劇で、ジュスティーヌ・トリエの監督としての幅の広さを見せつけた。
最後に、マティ・ディオップの『Athlantique』は、コンペティション作品としてはきわめて繊細で規格外の作品であり、本年のセレクションでは大きな驚きを持って迎えられた。2009年に発表されたセネガルの不法移民を描いた同名の短編「Athlantique」が、このたびの長編の大きなインスピレーションの源となっている。セネガルの首都、ダガールの郊外、砂埃の舞う工事現場、焼き付ける太陽と過酷な労働で汗ばんだ肌。私たちが最初に目にするのは、狼狽する若者たちの姿だ。その一人であるスレイマンは、恋人アダをおいて、セネガルからスペインに渡ることを決意する。同時にアダには、家族から強制された裕福な婚約者との結婚式が迫っているのだ。だが、スレイマンの出発にも、望まない結婚にも大きな感情の揺れを見せず、待ち受ける運命を静かに受け入れているように見える。ディオップは、彼女自身のルーツではあるが、決して生きたことのないセネガルを、そこに生きる人々の直面する現実を、ドキュメンタリータッチで描くことはしない。離れ離れになった恋人たちは、どのように«再び»出会うことができるのだろうか?そこにはつねに謎が秘められており、ディオップの驚くべき想像力を介して、«彼»は私たちの目の前に現れる。映画における物語や構造の論理に縛られず、自由を信条とするかのように撮られた『Athlantique』は、産業の論理で運動するカンヌにおいて、私たちに「他の」世界を見せてくれた。