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June 1, 2019

『ECTO』渡邊琢磨
隈元博樹

[ cinema , music , theater ]

 客席とスクリーンのあいだに現れた13名の弦楽奏者と、彼らを指揮する渡邊琢磨の姿が捉えられたとき、トーキーシステムの確立前に行われていた劇場型の上映形態をふと夢想する。世界初のトーキー映画が1927年公開の『ジャズ・シンガー』とするならば、それ以前に上映されていた映画はサイレントであり、当時の人々はこのような映画体験を求めて劇場へと足を運んでいたのだろうかと。ただし、客席とのあいだから奏でられるトーキー以前の劇伴とは、スクリーンに投影された映画の音の不在を、あくまで外から補完するための装置にすぎなかったのではないかとも思う。それは活動弁士の声と同じく、オーケストラが奏でる音はスクリーンに投写された映画が存在することで、初めてその効果を十全に与えるものであったに違いない。
 しかし、『ECTO』はサイレント映画ではない。画面上に映る俳優たちの台詞をはじめ、弦楽器の音とは別に聴こえる電子音や環境音が画面の中にしっかりと定着している。つまり既成の音が映画における「中の音」として位置付けられるならば、弦楽器による生演奏は、言わば「外の音」として私たちの耳へと届けられる。だから中の音によって構成される映画の場面に外の音が介在することもあれば、両者の音が各々の場面によって使い分けられることもまたしかり。さらには、画面に広がる植物園の落ち葉や草木の揺れが弦楽器によるものであることもしばし散見される。どの場面でどの音を聴かせるのかといったある種の秩序は、指揮棒を振るう渡邊本人によって選択されていくのだが、『ECTO』を観ていて不思議に思ったのは、そうした内外の音どうしが、我こそはといがみ合うわけでもなく、にわかに共鳴しているような感覚を得ることにある。そして、流れてくる映像に拮抗する形で内外の音が競り出してくるかのように、映像のためにあったはずの音が、しだいに音のための映像になっていくことが実に清々しい。こうして客席の私たちは、画面から迫り来る音と、弦楽アンサンブルによって聴こえる音とをつぶさに拾っていくことで、『ECTO』の音たちがまるでスクリーンの際を通して無造作に往来していくような光景を耳に焼き付ける。加えて中の音は、撮影現場とは異なる場所で撮られた(あるいはつくられた)素材を効果音、環境音、台詞に分けて出力されており、『ECTO』をめぐる音の状況とは、内と外の関係だけにとどまらず、中の音に潜む多層な構造さえそこに認めることができるだろう。
 往来する事物の動きは、映画の中の「ectoplasm(=外部原形質、心霊体)」たちがもたらす奇怪な体験と行為の集積にも関わっている。植物園の周りを徘徊するエクト(染谷将太)と正体不明の男(川瀬陽太)は、水戸の湖にいるはずのないサメが背びれを出して横切る光景を目撃し、この世の微生物に関する途方もない議論を開始する。あるいは『ゴドーを待ちながら』のウラディミールとエストラゴンのように、いまだ姿を現すことのない誰か(劇中ではエクトの「親父」と言っていたが)を焚火に当たって待っているかと思えば、唐突に広がるホログラムの世界を浮遊しつつ、植物園の研究員である女性(佐津川愛美)をこれみよがしに脅かしたりと、まるで理解と想像の範疇を越えた曖昧な世界をつねに漂っているのだ。だからこそクロップを左右に挟んだラストショットの人物がエクトではなく、何の説明もなしに中東系の青年にすり替わっていることや、そのあとにクレジットされる「ECTO」のタイトルバックから徐々にフォーカスを緩めていくエンドクレジットは、聴こえてくる音だけでなく、画面上の事物による存在の揺らぎを、ひとつの動きとして暗に物語ってもいるのだろう。
 映画の心霊体と画面の内外を彷徨する音の心霊体とが「上映と上演」というひとつの行為の中でつなぎ止められたとき、飛び込んで来る数多の情報におののきつつも、『ECTO』とは観ることと聴くことの可動域をさらに押し進める稀有な体験であることを決定づける。だからそんな夢見心地のまま、水戸から東京へと戻る帰りの電車の中で心霊体について想いを馳せたとき、『ゴーストバスターズ』に登場する専用車が「ecto-1」だったことを何となしに思い出したのだった。

2019年5月25日(土)・26日(日)、水戸芸術館にて上映+上演

  • 『冷たい夢、明るい休息』渡邊琢磨 宮一紀