『ガーデンアパート』石原海(UMMMI.)
隈元博樹
[ cinema ]
「庭付きのアパート」といったタイトルの由来は、本編を見終えたあともハッキリとわからないところではある。ただ、ひとまずこの映画に言えることは、居住空間を含めた登場人物たちの周囲には、彼らが横になるための場所がそこかしこに点在しているということだろう。それは妊娠中のひかり(篠宮由香利)と恋人の太郎(鈴村悠)が住む自宅のベッドをはじめ、彼の叔母の京子(竹下かおり)が暮らすアパートの寝室、酒瓶の並んだバーカウンターの床、世界(石田清志郎)が外の草むらに忍ばせておいた分厚いマットレス、夜の公道を低速で走る車のボンネット、さらには夜明けのアスファルトと多岐に及んでいる。カット割りを極力排した地続きの空間が設えられるなか、ひかりや京子は、太郎や世界とともにそうした横になるための場所に帰依し、時にのたうち回るようにして己の身を委ねようとする。たとえそれがどこであれ、また誰かといる、いないとにかかわらず、見えざる手がいつの日か差し伸べられることを待っているかのように、彼女たちはその場で腹這いになることを選択するのだ。
しかし、ひかりによる冒頭のモノローグから察するに、この映画が愛に関する彷徨の物語だとするならば、ひかりの愛は太郎だけに向けられたものでなく、愛そのものに関する思考をめぐらせていくいっぽうで、京子は亡くなった夫、金銭を元手に肉体関係を結ぶ太郎、そして現在の恋人である世界との愛を、あたかも郷愁のようにして回顧しようとする。もちろん彼女たちが抱く愛とは、画面から滲み出るものでもなく、当然ながら目に見えるものでもない。それらは身体を横にしたひかりや京子の語りを介したものではあるが、愛をかたどるための時制は、ひかりが語る現在に向けられた愛と京子が語る過去に向けられた愛といったように、たがいに異なるベクトルの指標によって各々の着地点を露呈させていくことになる。
だからこそひかりはラストショットでカメラの前に正対し、まっすぐな視線をこちらに投げかける。そして、冒頭と呼応するように発せられたモノローグは、太郎との決別を表明するものではなく、もはや理想としての愛でもなく、自らが囚われていたはずの空間から独立するための、高らかな解放宣言にほかならない。かろうじて立ち上がったものの、おぼつかない足取りのままマットレスへと回帰する京子とは異なり、ひかりはふたつの足をしっかりと地に付け、やや仰角に捉えられたカメラを淀みなく睨みつける。その光景を目の当たりにしたとき、「庭付きのアパート」という小さくも貧しい空間にいたはずのひかりは、庭やアパートといった外枠に囚われることのない、まだ見ぬ大きな空間への跳躍を果たそうとしているように思えた。